松尾匡のページ

11年9月16日 明日のマル経学会で日銀引受論バトル?



※ 追記:今朝の報道では「首相指示により消費税増税は除外」だそうで、すみません野田さん。だとしても下でお勧めした資産課税ではなくて所得税ですから、消費税増税ほどでないにしろ景気押し下げには変わりないですね。法人税は、減税幅圧縮するけど、やっぱり減税するには違いないそうで(失笑)。これで将来の景気に危機感持って、せめて金融政策の転換に進んでもらえればちょっとは光明があるけど。(11年9月17日)

 14日は高校の模擬講義のために前日から出張でした。
 この高校には、去年も模擬講義に行ったのですが、去年はインターネット上の資料を映して話しようと思っていたら、当日教室でインターネットがつながらないことが判明! 完全アドリブ講義になりました。仕方ないから時間をもたせようと、くだらない冗談を次々繰り出したっけ。
 それが気に入られたのか、今年はなんと「ご指名」をいただきまして、ありがたいお話でございます。
 それで今年は去年の教訓をふまえ、ばっちりパワーポイントを用意してまいりました。といっても例によって泥縄で、完成したのは前夜三時前でしたけど。一応、ファイルを「講演資料」のコーナーにアップしておきます。用意した話でいっぱいいっぱいでしたので、くだらない冗談を言ってる余裕はありませんでした。このせいで来年はご指名がこないかも。

 さて、前回のエッセーで、社民党も新社会党もリビア情勢について機関紙でとりあげてないとグチりましたが、その後両者とも機関紙に記事があがりました。
 新社会党のはひどいねえ(『週刊新社会』9月13日号3面)。欧米が石油利権のためにしかけた政変で、これから石油利権に欧米資本が群がってくるぞという内容。チュニジアやエジプトとは「明らかに様相を異にしている」と言います。
 いやそりゃそうなんですけどね。ロシア十月革命にしても、ある意味ドイツ政府がレーニンを「封印列車」で送り込んだ結果起こったようなものです。革命にしても反乱にしても、たいがいいろんな勢力の思惑がからんできて、陰謀話はいくらでもできる。しかし、どんなに大金をつぎ込んでも武器をつぎこんでも、客観的な内発的要因のないところに、一つの体制をひっくり返す大政変をエテ勝手にひき起こすことなんてできるはずないじゃないですか。
 この派の一部の論者は、ソ連東欧革命の論評のときもそうでしたけどね。ソ連型体制を潰すための、アメリカのうまぬたえまぬ工作はもちろんありましたよ。しかし、そんなこととか、ゴルバチョフ指導部が社会主義の確信を捨てたこととか、そんな主観的なことで世界史を画する大変動を説明して足れりとすることが唯物史観であるはずがありません。
 左翼政党にとってまずもって必要なことは、現にそこにある民衆の飢えの苦しみや抑圧された痛みに対して、人間として当然感じる共感を表明することでしょう。そして、民衆が権力に抗してそれに異議を唱えて立ち上がった勇気を讃えることでしょう。アメリカの思惑がどうであるかとか、社会主義理論がどうであるかとか、そんなことは、これをふまえた上で言われるべき、二の次三の次の話です。
 そうでないならば、そんな態度は、将来自分の進める運動が目の前の現実の誰か民衆の暮らしに困難をもたらしたときに、自分の脳内の理論を優先して内心の共感を押し殺し、現実の人間の方を踏みにじってしまうことに必ずつながるでしょう。
 全くもって残念な態度です。

 社民党のはちょっとはましかな(『社会新報』9月14日号5面)。フランスやイタリアは石油利権のためにかつてカダフィーを支えたのに、危なくなったらとっとと見限って軍事介入までやったのは、石油利権のためなら無定見になんでもやるという身勝手な態度だという主旨。新社会党の方は「カダフィー体制が続いた方がよかった」とも読めかねない論評なのに対して、こっちは「仏伊はかつてひどい独裁体制を支えていたくせに」という主旨なので、カダフィー体制を肯定しているわけでないことがはっきりしている点は評価できます。
 でもやっぱり革命に立ち上がった民衆への連帯がちゃんと表明されているわけではない。チュニジアやエジプトのときにははっきり表明されていたのに。
 「かつて独裁体制を支えていたのに、危なくなったらとっとと見限って退陣圧力をかけた」って言えば、エジプトのムバラク体制に対するアメリカの態度こそまさにそれでしたやん。だからといってそのことが革命を支持することの妨げになったわけではなかったですよね。じゃあリビアでも同じことを言わないと。
 まあこの記事は、最後はカダフィー体制と闘ってきた活動家の発言を肯定的に引用していますので、その点では救いがあります。

 私たちの側だったはずの政治家の残念な態度と言えば、辻本清美さんも。
 野田政権って言ったらあぁた、首相自身政治的に右翼の上に、内閣そろって増税シフトって、何もいいところがない。民主党への迷いも遠慮も断ち切ってくれたというのが一番いいところという内閣ですけど、こんなのができたとたん民主党に入るってことがどんなメッセージになるか。もう政治家の考えることって難しすぎて私にはわかりません。
 もともと辻本さんは、「マネーじゃぶじゃぶ」とか言って金融緩和政策を批判するとか、何かとトンチンカンな経済論を口にしてましたけど、経済のことしろうとでわかんないなら大目に見ますよ。でも、消費税が貧しい人に厳しい大衆課税で、今こんな景気で消費税上げたらどんな悲惨なことになるかぐらい、ちゃんと有権者庶民とつきあってたら当然わかるはずです。野田さんがそれを上げますって言って民主党代表になったことも当然わかっているはずです。それがわかっている上で今民主党に加わる態度はどうにも大目に見ようがないですよ。

 何度も言いますけど、復興支出の財源のために増税も他の支出の削減も必要ない。こんなデフレのさなか、20兆円や30兆円の支出の財源を、無からおカネを作って用意してもハイパーインフレなんか絶対になりませんから。せいぜいちょうどいいインフレになって景気がよくなるだけですから。政治家が調子に乗りそうで心配なら、インフレ目標を決めておいてそれ超えたら引き締めるようにすれば大丈夫ですから。
 もしどうしても増税したいなら、消費税なんて上げるよりも、金融資産課税にすべきです。現金で持たれたら補足できないけど、現金は新札発行して交換手数料とればいい。そうしたらブルジョワほど負担が高くできる上に、貯めるより使った方がマシだってことになって景気がよくなります。もう九年も前のエッセーで書いたことだけど。

 だいたい現政権いつまで円高放置する気かしりませんけど、これでこの上に消費税上がった日にゃ、失業者どれだけでるか。倒産廃業どれだけでるか。就職できない卒業生どれだけでるか。
 こんなことに左翼勢力が闘わなかったら、きっと極右運動が不満を集めて大高揚しますよ。田母神さん手ぐすねひいてますよ。
 今でも在特会メンバー一万超えとか言われて、対フジテレビ嫌韓デモとか盛り上がってるのに。「戦争は日本の侵略が原因」と書いた自治体マスコットのブログが抗議殺到して閉鎖されたのに。敵ながら見上げた粘り根性の運動で、極右教科書の採択は毎年増え続けてるのに。天皇の写メ撮ったとか撮らないとかで「不敬」とか言って大騒ぎになる世の中になっているのに。警察は脱原発デモ参加者逮捕して、経営者の監禁から逃げてきたネパール人労働者をその監禁犯に引き渡して、それに対して全然報道も抗議も広がらない、そんな出鱈目な世の中にもうなっているのに。
 既成左派エリートどもときたら・・・
おまえら危機感なさすぎ!
将来ファシストの獄中で頭冷やせ。・・・ってどうせそうなったら大半転向しちゃうんでしょうけど。(ま、ボクも自分がどうなるか保証できませんけど。)

 そんな中で、マルクス経済学界の中で、無からおカネを作る財政解決を唱えている数少ない論者である小谷崇さんが、明日17日の経済理論学会大会で自説を主張されます。それに対してコメンテーターとして討論するのが建部正義さん。その筋では有名ですけど、中央銀行がおカネを出すのは民間の銀行の必要にしたがうだけという理論を強力に主張されている人です。日銀の今の白川執行部の強い味方…って言うか、これでもまだ金融緩和しすぎってスタンスの人で、どこがどう「マルクス経済学」なのかさっぱりわからないのですけど、そんなふうに主張することが「マルクス経済学」なんだと当然のように考えておられるようです。
 まあインフレになったら、資産価値が下がってブルジョワは困ります。インフレで景気がよくなって失業者がなくなったら、労働者はクビにされるリスクがなくなって強気に出て、やっぱりブルジョワは困ります。こんなことにならないようにしましょうって言って、明日の食にも困る失業者続出、労働者はクビを恐れて何でも言うこときくしかないというこの現状を守ろうというわけだから、とんだ「マルクス経済学」もあるもんだと思いますが、なんか知らないけどホントにマルクス経済学界の中ではこっちの味方の方が多そうなのだから、いったいこの国はどうなってんだか。
 というわけで是非小谷翁の応援に行かねばならないところなのですが、17日はカミさんが職場旅行で、同居してる義父のために晩酌の用意しろというカミさんの厳命があるために行けません。残念。
 会員で行ける人は是非行って、小谷翁に熱烈な支持の声を送って下さい。

 実は、小谷さんと建部さんの「対決」には前哨戦がありました。
 『税制研究』第58号で、小谷さんは、財政問題を解決して景気をよくする方法として、民間の持っている国債を、日銀が無から作ったおカネで買い取って、無期限無利子国債に転換して事実上チャラにしてしまうことを提唱しました。また、政府が発行した国債を、無から作ったおカネで日銀に引き受けさせることで財源を作り、麻生給付金の十倍、二十倍のおカネを全国民に支給することも提唱しました。「バラマキ上等」ってわけですね。全くそのとおりで、何度も言いますが、デフレのさなか、たかがこんなもので悪性インフレになることはありません。確実に景気はよくなって、労働者大衆の生活は改善します。
 それに対して、『政経研究』の第96号で、建部さんが「小谷崇氏の「国債問題の徳政令的解決法」について──金融の世界にミラクルは存在しない」と題して批判を展開しているのです。

 まずもって、この議論に根本的に違和感があるのは、建部さんの基本認識である「金融とは、マルクス経済学的見地にたてば、既存の価値ないし付加価値が再配分される世界にすぎない」というところです。
 ここには経済全体の生産活動の雇用規模が一定不変であるという前提が必要です。百万人の雇用が生み出す価値よりも、二百万人の雇用が生み出す価値の方が大きいに決まっています。経済に二百万人の雇用をする能力があるのに百万人の雇用しかできていないならば、総需要がその分不足しているということですので、人々の欲求に貨幣の裏付けがつけば総需要が拡大して雇用が拡大し、より多くの価値が生み出されます。「既存の価値ないし付加価値が再配分される世界にすぎない」とすることの前提は成り立ちません。

 しかしここで仮に建部さんの言い分を認め、金融の力によっては雇用を増やすことはできず、総労働が一定不変だとしましょう。建部さんは、それだから、国債の棒引きは、別の価値の犠牲によってのみ可能なので、金融論上承服し難いと断じられるわけです。
 しかしこのとき、いったい誰のどんな「価値」が犠牲になっているのでしょうか。例えば、国債を発行して得た資金で、被災地の復興支出をするという事態は、現実に国債を引き受けるのがだいたいは銀行か大金持ちの個人である以上、本質は次のようなことです。すなわち、もしそうでなかったならば銀行が貸したおカネで資本家が設備投資をしたり、大金持ちが豪邸を建てたりするのに使われていたであろうおカネ(あるいは何にも使われずに死に金になっていたおカネ)が、被災地で学校や住宅や被災者の生活に必要な物を買うのに使われるということです。その後、政府が増税してその国債を償還するということは、広く大衆が各自の生活に必要な物を買うのを少しずつ減らして、その分、銀行が資本家におカネを貸して設備投資に使ったり、大金持ちが豪邸を建てたりする(あるいは何にも使われない死に金を貯める)のにまわすということです。
 したがって、仮に最も乱暴な想定で、この償還を単純に踏み倒したならば、損をするのは設備投資や豪邸建設ができなくなるブルジョワ階級で、得をするのは暮らしを切り縮めなくてすんだ一般大衆です。マルクスの構想するプロレタリア独裁政権なら躊躇せずそれを選んだでしょう。それが現実の資本主義経済のもとでは無理だと主張する立場があってもいいと思いますが、だから増税して償還しろということは、勤労大衆の犠牲の上にブルジョワジーに奉仕すべきという主張であって、「マルクス経済学的」なる言葉を印籠のように何度も掲げて言うべきことではないと思います。

 では、小谷さんの主張のように、中央銀行の作ったおカネで償還されたらどうなるでしょうか。ブルジョワジーたちは、それでもって設備投資したり豪邸を建てたりできることになります。一方で一般大衆の生活も切り縮めることなく以前通り支出されます。もしここで、建部さんの前提どおり、総労働の規模が不変ならば、総需要超過でインフレになって、一般大衆の購買力が減少して、結局増税して償還したのと同じことになります。しかし、今の日本のように生産能力が余っているなら話は別です。この場合は、需要が増えた分生産増が追いつけますので、たいしてインフレにはならず、みんな得をすることができます。
 あるいは、建部さんはマルクス派を自称する手前、増税はブルジョワジーに課すというおつもりなのでしょうか。もしそうならば、大雑把に言って、右の手から取ったものを左の手に返すだけで、踏み倒すのと何も変わりません。

 さて、建部さんは小谷さんのアイデアに対して、それが不可能である旨の説明を縷々されているのですが、大半は、人為によらない経済法則を根拠にしているのではなくて、「できないルールに決まっているから駄目」というものにすぎません。だったらできるように法制度を変えればいいではないかというだけの話になります。
 現行中央銀行制度は、あたかもそれが一民間銀行同様の性質のもので、あたかも銀行業務として金融政策を遂行するもののような形式をとって作られていますが、それはソ連や中国の共産党が政党であって国家機関ではないような形式で作られていることと同じようなものです。実際には、国民経済全体に甚大な公的影響を与えるという意味で国家機関にほかならないわけですから、むしろその実態にあわせて民意の代表機関の公的コントロールのもとにおく方が民主的になるというものです。あたかも民間銀行と同様の機関であるかのような形式をとることが、望ましい政策の障害になっているならば、それを改めることに何の差し障りがあるのでしょうか。
 周知のように『共産党宣言』は、来るべき革命政権の方策として、「国家資本によって経営され、排他的独占権を持つ一国立銀行を通じて信用を国家の手に集中する」と掲げています。少なくとも当面の政策としては、およそ銀行はすべて国家機関たるべしというのがマルクスの志向だと言えるでしょう。建部さんは、民間の銀行と同様の形式に中央銀行の実態を合わせ、さらにこの形式を強める方向を目指すべきだと考えておられるようです。このような立場の論者がいてもおかしくないと思いますが、少なくともマルクスの志向とは反対です。このような立場こそが「マルクス経済学」であると掲げて主張されるのは極めてミスリーディングであると思います。

 ここでは、小谷さんの提案に対する建部さんの批判のうち、「できないルールに決まっているから駄目」というよりは、もう少し経済学的根拠を持っているものを中心に検討してみましょう。

 まず、民間が持っている国債を日銀が買い入れて、それを無期限無利子の国債に転換するという小谷さんの提案は、文字通りの「棒引き」として主張されているわけではなく、建部さんも推測されるとおり、その無期限無利子の国債が日銀のバランスシートの資産側に入って、負債側の貨幣発行と見合いになっていると考えるべきでしょう。これに対して建部さんは、日銀職員4900名余の給与などの運営コストは、おおよそ国債の利子でまかなっているのだから、無利子になると日銀が財務上の困難に陥ってしまうとおっしゃいます。
 まずもってこの議論は論理的におかしいです。現に今持っている額の国債も含めてすべて無利子にせよと言っているのではなく、新たに買い入れる国債について言っているのですから、現に得られている利子は得られ続けます。発行する貨幣の規模が増えたら、それに比例して日銀の運営コストも増えるというのならともかく、実際には、貨幣の規模が増えても日銀の運営コストはほとんど増えませんので、現に得られている利子でコストがカバーできているかぎり、新たに買い入れる国債がゼロ利子になったとしても運営コストはカバーされ続けます。

 それから、どうしてもこれが駄目だというのならば、転換後の無期限国債はべつに「無利子」にする必要はありません。日銀の収入から運営コストを除いた余ったおカネは、どうせ「国庫納付金」として国に収めることになっているからです。日銀の収入がおおむね政府からの利払いだとすれば、政府が払ったものから必要経費を除いたものが政府に戻ってくるということです。要するに、日銀の保有するすべての国債を無利子にして、日銀職員は国家公務員として国家予算で面倒見るのと結局はもともと同じことになっているわけです。(なお、日銀の配当金にはすべて課税した方がいいと思います。)

 この日銀による国債の買い入れについて、建部さんは、民間の銀行などが応じるだろうかと疑問を出されています。というのは、銀行は、企業への貸し付けが伸び悩んで国債を主たる収入源にしているからだと言います。日銀に国債を売っておカネをもらっても、おカネの使い道がない。新しく発行される国債を買うしかないけど、そんな行動をとろうとするのは、新しく発行される国債の利子率が上がる場合なので、そんなことになったら国債価格が下がって銀行は評価損に苦しむだろうというわけです。
 しかしこの推論は成り立ちません。民間の銀行が国債を売ろうとしない中で、あくまで日銀が国債を買おうとしたならば、国債価格が上がります。銀行は値上がり益を得ますので、売った方が得になります。売らないということはあり得ません。(なお、値上がり益分は銀行の所得になります。人々がそれを支出したら、不完全雇用のかぎり、それに見合って雇用が増えて生産が増えます。)
 また、必ず買った時より少しでも値上がりすることが見込まれれば、新規発行の国債を買うのにも応じます。国債価格はこの場合上がりこそすれ下がる必然性はありません。この場合は、利子率が下がり、それ自体が直接に金融緩和の効果となります。

 また小谷さんが、無利子無期限国債の日銀直接引き受けによる財政支出を提案したことに対して、建部さんは「禁じ手中の禁じ手」と断じておられます。法律が禁じているならば法律を変えればいいだけの話なのですが、小谷さんも指摘されているように、現行法でも「特別の事由があれば」国会の議決があればできることになっています。
 それに対して建部さんは、この「特別の事由」について、「たとえば、関東大震災クラスの自身が発生した場合など、文字どおり、特別な事例に限られるものと理解している」とおっしゃっています。なるほど、まさに今がそのときではないでしょうか。

 さて、建部さんは、小谷さんの提案は、結局「政府紙幣」発行論に行き着くとおっしゃっています。それはまったくその通りなのであって、ポイントは、総需要拡大の財政政策のために通貨を発行しようというところにあるわけです。その政策に責任を持つ政府が直接通貨を発行するのが一番簡単でわかりやすいのですが、政治的現実に譲って、中央銀行が間に入った形式を守るとしたらどうするかということで、いろいろ提案されているにすぎません。
 建部さんは、政府紙幣をどうやって流通させるのかというところに、技術上の困難があるとおっしゃいます。また、政府紙幣発行を可能にする法律がないとおっしゃいます。政府紙幣の流通のさせ方については、「硬貨のケースと同様に、政府紙幣を日本銀行に交付して、見返りに日銀当座預金を受け取る以外に方途はなくなる」としています。これはそのとおりだと思いますが、それに対して、「この場合にも、企業や家計が自己の市中銀行預金を日本銀行件ではなく政府紙幣で引き出さないかぎり、流通への回路がとざさせることになる」と評しておられます。
 しかしこれは何ら問題ではありません。政府「紙幣」にこだわることはないのです。何なら現行法下でも硬貨は政府が発行していますので、政府が五百円玉を改造した五十兆円硬貨を一枚作り、それを日銀に持っていって両替してもらって、政府の口座に五十兆円振り込んでもらえばいい話です。あとは、政府支出は銀行振込で行い、支払いを受けた者もまたたいていの場合は銀行振込で支出するので、何も問題なくことが進んでいきます。日銀券で引き出して使っても何も差し支えありません。
 このようなやり方に対して、建部さんは「この方策は、国債の日銀直接引き受けと事実上なんら異なるところがない」と評されます。そのとおりだと思いますが、その何が悪いのかということになります。

 結局建部さんの議論は、「できないルールに決まっているから駄目」というだけにとどまらない、何らかの経済学的法則らしき根拠を求めるならば、唯一、「おカネを作って政府の財政をまかなうことを一旦認めると、歯止めがなくなって悪性インフレになる」という命題に行き着きます。
 しかしこの命題の根拠は何かと問えば、歴史的にそうだったからという理由しかありません。ところが過去のハイパーインフレの例を見ると、たいてい何らかの意味で生産能力が失われてしまっています。供給が需要に追いつかないからこそインフレが昂進していくのです。今の日本のような供給能力が有り余ったデフレ状態でそんなことになったケースはありません。
 それでも、景気が回復して完全雇用・フル稼働に至ったあと、なお政府が歯止めを失って止められなくなるとおっしゃるのかもしれません。
 だから、小谷さんはじめ多くの論者は、「インフレ目標」を提唱しているのです。「インフレ目標」は、日本では下からインフレ値を上げる目標として言われますが、もともとは上からインフレを抑える目標として提唱されたもので、多くの国で採用されてその効果が繰り返し実証されているものです。何百パーセントにもなったインフレを抑えようとしても、貨幣を出さないと経済がクラッシュしてしまうので放置せざるを得ないというのはわかりますが、目標2%を超えて3%、4%になったインフレを2%に抑えるために貨幣を吸収しても、経済がクラッシュすることはありません。
 したがって、インフレ目標を定めておけば、それを超えてもなおおカネを作って財政をまかない続けることはしないと人々に確信されます。よって、通貨の信認が現時点で失われることはありません。
 インフレ目標を使わずに、おカネを作って財政をまかなうことを一律に禁じることは、たとえていえば、体重を目安にせずに、食事の量を「一日にお茶碗一杯」などと一律の基準にしてダイエットしようとするようなものです。タブーを一度侵せば歯止めがなくなるからと、ガリガリで疲労困憊した状態でもなおその禁を守り続けているのが今の日本の状況だと言えましょう。

 ちなみに、国債の日銀直接引き受けをすると、「長期金利が上がって経済に悪影響を及ぼす」という議論がありますが、前にも書きましたが、そんなことはありません。政府による債券供給増と日銀による債券需要増が必ず等しくなるようにするわけですから、直接の債券市場への影響はなく、このことで利子率が上がる根拠はありません。名目金利が上昇するとすると、それは、将来のインフレを織り込んだ結果であり、実質金利が上がるわけではありません。実質金利は、むしろ下がる可能性の方が大きいでしょう。

 どうも、この手の議論が「マルクス経済学」と名乗っているのは、『資本論』での銀行券の説明が、金本位制下、商業手形の流通から諸銀行の手形としての銀行券が発生し、諸銀行券の流通からイングランド銀行券が出てくる経緯として説かれているので、どうやら管理通貨制度下の今日の中央銀行もそれと同じロジックで説明しなければならないと考えられているからのようです。
 しかしマルクスのこの説明は、モロ疎外論のロジックだと思います。「特殊バラバラに制約されたものどうしを媒介するために、普遍的なものが外に発生してコントロールが効かないものになる」という図式の応用なのです。個々の業者の特殊な信用に制約された商業手形を媒介するために地域内普遍性を持った銀行手形が発生し、個々の銀行の地域的特殊性に制約された銀行信用から、それを媒介する全国的に普遍的な信用を持った銀行券が発生するというものです。だから、他のすべての疎外論の応用と同じく、批判を込めて言っているのです。
 当然、将来の革命政権の政策を語る段になれば、こんな仕組みは無造作に無視されるわけです。代わって労働者国家によるコントロールが提唱されるわけです。

 『資本論』でこう説かれているから中央銀行というものはこういうものであらねばならないという言い方こそが「マルクス経済学」だとすると、以下のような主張も「マルクス経済学」だということになるでしょう。
 『資本論』では労働者は窮乏化すると言っている(この読み方が正しいかどうかはおいておいて)のだから、労働者は窮乏化させなければならない。
 『資本論』では賃金は労働力の再生産費で決まると言っているのだから、賃金は労働力の再生産水準を超えてはならない。
 『資本論』では失業は資本蓄積の進行のために不可欠と言っているのだから、失業がなければならない。等々。

 なるほど過去には実質的にこの手の主張を掲げて資本主義のもとでの改良運動に反対したマルクス主義者もいましたけど、そういう人たちは、だからこそこんなろくでもない資本主義は打倒しなければならないといって社会主義を目指したわけですから、彼らがマルクス主義と名乗ることにも根拠はあったわけです。
 しかし建部さんの場合、「資本主義のもとでは中央銀行はこんなものでしかあり得ないのだから、資本主義を打倒して社会主義になろう」という問題意識でおっしゃっているようにはとても聞こえません。『資本論』では失業は資本蓄積のために不可欠と言っているのだから、失業をなくす政策をとるのは有害無益であるというたぐいの主張と同じロジックに聞こえます。何しろ格付け機関の警告やら白川さんの発言が金科玉条のように掲げられているのですから、全くたいした「マルクス経済学」だと思います。


「エッセー」目次へ

ホームページへもどる