松尾匡のページ

13年6月7日 新共著では共同体主義批判!



今日のエッセーの目次
■ 朝日カルチャーセンター講演と「新しいケインズ理論」
■ 新共著『市民参加のまちづくり・グローカル編』でコミュニタリアン批判
■ これからのリバタリアンの話をしよう


■ 朝日カルチャーセンター講演と「新しいケインズ理論」
 何度かお知らせしましたとおり、6月1日には、経済理論学会の幹事会で上京したのにあわせて、「朝日カルチャーセンター」で講演いたしました。

 この講演で間違いを一つ申しましたので謹んで訂正いたします。
 リーマンショックのとき、スウェーデンでは大胆な金融緩和によって危機を克服しているのですが、このとき同国は社民党政権であったように言いましたけど、保守・中道政権への交代は2006年に起こっておりますので間違いでした。すでにこのときには保守政権になっていたのでした。
 本サイトでも、3月6日のエッセーで同じ間違いをしておりますので、訂正しておきました。昨年11月24日のエッセーでは、保守政権への交代が2010年と書いてありますがこれも間違いです。2010年の選挙でも保守・中道連合が勝っていますが、すでにもう2006年には政権交代していたのでした。先日の藤原書店の『環』2013年春号の拙稿では、リーマンショック時の政権が社民党とは書いてないのですが、社民党への政権交代後の話に続けていますので、やはりミスリーディングです。
 以上、訂正し深くおわび申しあげます。

 さて、1日の講演は、20数人ぐらいのかたにおいでいただきました。ありがとうございます。拙著をご入手下さっていたかた、本当にありがとうございます。
 主催者のほうからは「好評」と言っていただいていて、秋にまたやれということになって、ありがたいことですが、ちょっと話が理論的で大きすぎたかも。欲張って詰め込んで、ペースが早すぎたかもしれないと反省しています。まあ、うなづいて下さる様子からは、総じてご理解いただいたように感じましたけど。
 そうしたところ、ご参加いただいたid:alicewonder113さんが、講演内容をまとめて下さいました。レジュメも何もなくパワーポイントで話を進めただけなのに、ここまでノートしていただき、大変なお骨折りだったと思います。感謝の至りです。

Togetterまとめ:「右」と「左」を問い直す − これからの本当の対決軸とは

 ほとんど正確ですが、ただ、最後の最後のまとめはちょっと違うかな。まあ、読者のみなさんは、リンクしていただいている本サイトエッセーとかでフォローして下されば。
 おまけに、講演内容のマクロ経済政策関連の部分をパワーポイントスライドにして下さっています。

alicewonderのアンテナ:「政府の失敗」から「予想を可能にする政府」へ

重ねて感謝いたします。いやあ、わかりやすくていいですねえ。

 ところで、このページでは、マンキューさんのニュー・ケインジアンの経済学についての解説文の翻訳ページに、リンクをつけておられます。
 これは、私の話の中で「新しいケインズ理論」をリフレ政策の理論として紹介していることを受けて、参考のためにリンクされたものだと思います。とても行き届いた配慮で、読者にとって勉強になることだと思います。
 ただ、私は、自分が「新しいケインズ理論」と呼んでいるものを、読者が「ニュー・ケインジアン」と理解して構わないという「未必の故意」的な気持ちで使っているのですけど、本当はちょっと意識して使い分けているんですね。通常は、小野善康さんとか齋藤誠さんとか大瀧雅之さんとかは、「ニュー・ケインジアン」には含みませんけど、私はこの人たちも含めて、「新しいケインズ理論」と呼んでいます。
 このような目から見ると、マンキューさんのは、「新しいケインズ理論」の中でも、かなり古い世代のバージョンだと思っています。価格がゆっくりとしか動かないことに、市場メカニズムがスムーズに働かない本質を見て、どうしてゆっくりとしか動かないのかを合理的に説明しようとしている立場のように思います。
 しかし私見では、新しいケインジアンの理論モデルが市場の機能不全を描写できる本質は、そこにあるのではないと思っています。新古典派の市場万能モデルで、何らかの不均衡が起きても瞬時に価格がジャンプしてクリアすることの要点は、その価格の動きが人々に予想されないことだと思います。新しいケインズ理論のモデルで、潜在生産量とのギャップなどを受けて価格がゆっくり動くことの本質的意味は、それが人々の予想に織り込まれることにあると思っています。このために、デフレが予想されると予想通りデフレになってそれが続くということが言えるのだと思います。詳しくは、本サイトのこちらのエッセーをご覧下さい。
 だから、マンキューさんの立場では、十分時間が経てば、やがて価格の運動が落ち着いて、新古典派と同じ均衡が実現するということになると思います。それに対して、その後のタイプのモデルでは、デフレが続くと予想すると予想通りデフレが続いて、経済は新古典派的な均衡とは別の均衡にはまり込んでしまいます。どれだけ時間が経っても、失業者いっぱいの不況から抜け出せないという事態が描写できるわけです。

 私が、リフレ政策のもとになっているとして紹介している「新しいケインズ理論」は、こうしたバージョンのものです。そこに入り込んだら抜け出せない「流動性のわな」の不況均衡を説明してあるものです。これは、マンキューなどの初期のニュー・ケインジアンからの自然な発展として出てきたものもたくさん含みますが、通常はそれに含まれない小野さんや齋藤さんや大瀧さんのものも、私としては含めているつもりです。
 実は、このお三人とも、リフレ政策については反対されている立場です。しかし、それはお三人の理論モデルから導きだされた結論ではありません。モデル外的な価値観や信念のようなものだと思います。お三人のモデルともに、インフレ目標を掲げた金融緩和政策を支持するように読むことが可能です。

 小野さんについては、ご本人と直接電話で話して、はっきりと確認してあります。同じ条件のもとで、デフレ不況均衡と完全雇用インフレ均衡の二種類の均衡があり得て、そのうちデフレ不況均衡にはまってしまっていたらどうするか。「革命政権」的な宣言で、人々の予想をえいやといっせいに変えれば、完全雇用インフレ均衡に移行できるというのが小野さんのモデルから言えることということは認められました。「そんな大変なことをするよりは財政出動の方がいい(もちろんそれもやった方がいいです)」ということでしたけど。

 齋藤さんのモデルの流動性のわな均衡では、価格が未決定になりますので、いろんな価格決定の式と両立できることになります。だからリフレ政策的な価格決定式とも両立できます。これは、高橋洋一さんや浅田統一郎さんが指摘していることですが、齋藤さんの『先を見よ、今を生きよ』(日本評論社)という2002年の本では、実はご自身が書いておられます。流動性のわなモデルの説明のあとに続けて、77ページで次のようにおっしゃっています。

 期待形成へ働きかける金融政策
 貨幣数量関係が崩れ、名目貨幣供給プランに対して物価水準が一義的に決まらないということは、裏を返せば、金融政策によって物価経路を誘導できる余地があるということになる。そうした状況で中央銀行は、家計や企業の期待に積極的に働きかけて、インフレを醸成していくという政策手法を採ることができる。
 具体的には、日本銀行が、物価水準の将来経路についてできるだけ踏み込んだ目標をアナウンスし、家計や企業の価格期待をアナウンスされた経路に集約していく。
 同時に、将来の物価上昇を反映して短期金利水準が上昇していくことについても、日本銀行が明示的なアナウンスをすれば、市場参加者の間で、物価上昇傾向の具体的なイメージがいっそう定着するであろう。将来の短期金利の上昇を反映して現在の長期金利が上昇するので、現時点のイールド・カーブ(利回り曲線)は右上がりになる。
…(中略)…
 …将来の価格変数に関するアナウンスメントを伴わないゼロ金利政策の実施は、インフレ期待を醸成するという目的とは合致しがたいのである。
 ゼロ金利政策の大きなメリットとして長期金利の低位安定がしばしば指摘されてきた。しかし、この場合、長期金利の低さが必ずしも景気循環に対してポジティブな影響をもたらしているわけではない。むしろ、長期金利が低いということは、デフレ傾向の固定化を反映しているにすぎない可能性が高いといえる。

 齋藤先生!この後半のお話は当時むしろ反感を持って読みました。実際、福井さんの日銀程度のアナウンスメントでも、人々のインフレ予想は多少はついて景気回復しましたし。
 しかし、今読み返すと、おっしゃることはよくわかります。その通りです。今ちょっと長期金利が上がった位でうろたえるなということです。「道草」で翻訳されているこの記事の言う通りです。
 ともかく、前半でおっしゃっていることは、齋藤さんのモデルからすなおに出てくることで、全く正しいと思います。なぜご自分の見解に反対なさるのだろうと思います。

 大瀧さんのモデルもまた、いろいろな価格決定のあり方と両立するので、リフレ論的解釈もできるというのは、私も指摘してきたことです。このことについての詳しいことは、以前エッセーに書きましたのでそちらをご覧下さい。関連する未完成論文もダウンロードできます。


■ 新共著『市民参加のまちづくり・グローカル編』でコミュニタリアン批判
 ところで、このほど新共著が出ました。
 かつて久留米大学において同僚だった西川芳昭さん、伊佐淳さんと共編で、創成社から、これまで「市民参加のまちづくり」と題するシリーズ本を出してきました。

事例編 戦略編 英国編 CB編
事例編     戦略編     英国編     コミュニティ・ビジネス編

 これ、結構ご好評をいただいて、事例編、戦略編、コミュニティ・ビジネス編は、韓国語訳も出版されています。
 その後、西川さんや私が移籍して、しばらく続きがでなかったのですが、6年の沈黙を打ち破り、とうとう最新編が出ました。

伊佐淳、西川芳昭、松尾匡編『市民参加のまちづくり・グローカル編──コミュニティへの自由』創成社、本体2400円
グローカル編
honto amazon

 シリーズ揃えると、お祭りの夜店のかき氷のシロップの色みたいでしょ。
 テーマは、「コミュニティというものを自明視するな、それは各自が主体的に問いなおして創っていくものだ」というものです。地域コミュニティが、闊達で、個人を埋没させず、閉鎖的にもならずに世界に通じる普遍性を持つにはどうすればいいかを、理論と事例から考えています。

 この最初の章が私の執筆論文で、「コミュニティからの変革の政治哲学的基礎付け──リベラル風コミュニタリアンの蹉跌を超えて」と題した、コミュニタリアン(共同体主義)批判の章になっています。

 実はこれは、1日の朝日カルチャーセンターの講演の話と密接に関連しているんです。
 「朝カル」講演では、「ブレア・クリントン・日本民主党路線」批判が、一つのテーマになっていました。70年代までの国家主導体制が行き詰まって、それを乗り越えるための転換が迫られた、そのことを、新自由主義は「大きな政府から小さな政府へ」等々と誤解したのですが、新自由主義を批判して遂行されたブレア・クリントン路線もまた、この誤解を引き継いでしまったというわけです。そして、福祉などの公的責任を、NPOや協同組合や地域コミュニティにゆだね、政府は財政削減などでその役割から撤退していったわけです。その究極型が日本の民主党政府だった!
 その際、政治哲学的には、コミュニタリアンが採用されました。アメリカの民主党政権のブレーンも、かつてのリベラルからコミュニタリアンに入れ替わったのです。
 講演でもそのことに触れて、それが失敗の原因だと指摘したのですが、これを全面展開したのがこの章の論文です。

 この論文では、アメリカのネオコンも、ヨーロッパの極右排外主義も、コミュニタリアン路線のもたらす当然の帰結として説明しています。本人たちは中道左派的なつもりで言っていたことが、あるいは理屈を逆手にとられ、あるいは反発から、このようなものをもたらしたのだということです。そして、NPOや協同組合などを通じて世の中を下から変える路線自体はいいのだけれど、特定の人間関係のアイデンティティに個人を埋没されてはいけないと論じています。

 執筆者各自へのタダ本の割当がごくわずかなので、お世話になったかたがたにもほとんど献本できません。ご了解下さい。


■ これからのリバタリアンの話をしよう
 講演では、脱70年代転換に対する、新自由主義とブレア・クリントン路線両者に共通する誤解に、「身内集団原理」的な大前提があると論じました。
 70年代までの体制が行き詰まったことの根本には、それまでの、集団のメンバーが定まった固定的な社会関係が崩れてしまっていったことがあると思います。国家とか、日本の場合は「会社」などですね。それがグローバルで流動的な関係に変わってきたわけです。つまり、身内集団原理のシステムが崩れて、個人どうしがいろんな相手とわけへだてなく取引するシステムになってきたということです。

 ところが、新自由主義の側は、その事態をナショナリズムを前提にして解釈したわけです。
 それが、「企業が国ごとにまとまって、お互いに国際市場を舞台に食うか食われるかのバトルをしている」と見るグローバル市場観です。本当は一国の中も外資だらけで国内企業はいなくなるという「ウィンブルドン化」したり、自国企業も平気で国を見捨てて外国に移転していったりして、企業が国ごとにまとまるという前提自体成り立っていないのですが。
 そして、そのグローバル市場観を真に受けて反発したのが、ブレア・クリントン路線だったというわけです。で、グローバル市場も駄目、国家も駄目ということで、ならばコミュニティと立論されるわけですな。それでコミュニタリアンに走った。
 問題は、脱70年代転換は、身内集団原理が崩れて開放的流動的個人主義的な人間関係が比重を高めるシステム転換なのに、それに適応するつもりの立場が、ナショナリズムやコミュニタリアンといった、どちらも身内集団原理に基づく前提を採用してしまったということです。その間の矛盾から、さまざまな問題が説明できると思います。

 私は、脱70年代転換をふまえた今日ふさわしい政治哲学は、一種のリバタリアン思想でなければならないと思っています。
 リバタリアン(自由至上主義)って言ったら、アメリカの茶会党みたいな保守過激派を連想したりしてイメージ悪いですけど、ああ言うのはもちろん本当はリバタリアンじゃありませんよ。リバタリアンはあくまで個人の自由を第一に尊重しますので、愛国心にせよキリスト教にせよ、共通の価値観で人をまとめようとする志向は嫌いますし、徴兵制はもちろん反対、同性愛も妊娠中絶も自由。とてもアメリカの保守派とは相容れません。
 とはいえ、本当のリバタリアンも現実には、貧しい人のために課税して再分配することは嫌いますし、市場取引への公的介入はなんだって反対、景気対策もするなというものが多いです。金本位制の復活を主張する論者もいます。リフレ派から見たら悪の権化ですよね。
 しかし私は、リバタリアンでも、不況などの経済問題に対処するための政府介入は正当化できるし、民間人どうしの契約へのさまざまな公的介入もまた正当化できると思っています。妥協とか譲歩ではなくて、思想の根幹から必然的に位置づけられるということです。

 昨年度後期内地留学していた九州大学の数理生物学研究室に、クロアチア人の青年がいたのですが、彼は「100%リバタリアン」を自称しています。この彼と、武士道商人道話で盛り上がって、共同論文に引き込んだもので、今も作業のやりとりが続いている所です。彼はやはり、旧ユーゴ内戦を知ってますから。ちょっと前まで友人だった人が、いきなり対立民族だからという理由で敵として憎みあわなければならなくなる理不尽さが身に染みているわけです。だから、セルビア人だとかクロアチア人だとかと人を集団にまとめて評価することを嫌悪しています。
 前に、その彼を食事にさそって、リバタリアン話をしかけて大盛り上がりしました。サンデルさんの白熱教室に出てくるみたいな難問を次々出してみたわけです。それに対する私自身の答えは、まあまあ納得してもらえたような気がして、彼からは「90%リバタリアン」と言われました。
 そしたら、新年度から修士のゼミ生になった院生が、リベラルvsコミュニタリアン論争のフォローを始めたりしたので、やっぱりリバタリアンのことも話題になって、同じことをゼミの院生たちに聞いてみました。

 問題の一つは、例えば、誰一人残業したいと思っていないのに、まわりがみな残業しているから自分も仕方なく残業するというような事態は自由の侵害かということです。強盗が他人のものを意に反して奪うような事態は、誰でも自由の侵害だと思います。だからリバタリアンでも、警察のような公権力が介入して、このような自由の侵害をやめさせることは正当化されるわけです。アメリカのリバタリアンでは、このような、誰の意図かはっきりした強制は自由の侵害として扱われるのですが、誰一人残業したいと思っていないのに、みんな残業しているからしかたなく残業して、そのことがみんなで合成されてお互いへの強制になっているような事態は、あまりよく意識されていないように思います。アメリカ人にはこんな話はピンとこなくて、「帰ればいいやん」ぐらいに思われるのかもしれませんが、日本に住んでいる我々は、この手の不自由さを毎日嫌というほど経験しているわけです。
 残業ぐらいならばかわいいものかもしれませんが、この手の相互強制で、イジメだとか差別だとか、はなはだしくは戦争みたいなものに突き進んでいく。これを自由の侵害として批判できなければ、何のためのリバタリアンかということになります。「100%リバタリアン」のクロアチア青年も、そりゃ自由の侵害だと言って、公権力の介入が正当化されることを認めました。

 そうだとするならば、例えばデフレ不況はどう理解できるでしょうか。
 みんなデフレを予想して行動するから、みんなモノを買わなくて本当にデフレ不況になる。みんなもっと余裕のある生活がしたいのですけど、しかたない節約しないと。従業員のクビを切りたい経営者なんて本当はほとんどいないのですけど、しかたないクビ切る。誰もがみな、こんなことは本当はしたくないという行動をとって、その合成結果がやはりデフレ不況を再生産するわけです。みんながしたくない残業をすることで、残業することが相互強制されるのと同じです。その結果、たくさんの人が貧困にあえぎ、家庭が壊れたり、自殺者が出たりします。
 やはりこれも自由の侵害でしょう。各自の幸福追求権が踏みにじられます。残業のケースが自由の侵害ならば、全く同じ図式のこのケースにもそれはあてはまるはずです。このような自由の侵害をやめさせるために介入することは、強盗を取り締まることと同じく、公の責任だと位置づけられるはずです。
 というわけで、景気対策のための公的介入はリバタリアン的に正当化されるのだと思います。

 さて、もう一つの問題は、誰も他者の自由は侵害していない上で、自由意思に基づく合意はどこまで認められるのかという問題。リバタリアンになったつもりで答えて下さい。
 自殺とか、安楽死や尊厳死、臓器移植、覚醒剤取引等々といったことはよくこれまで議論されてきましたね。もっと難しい例を言えば、シェークスピアのベニスの商人の「期日までに金を返せなければ我が胸の肉1ポンドを渡す」という契約とか。「どちらかが骨折するまで試合をつづける」というデスマッチの契約とか。本当に傷害を負わせる暴行レイプビデオの出演契約とか。
 あるいは「奴隷契約」とか…と言ったら、いつも私の家庭生活の話を聞かされている女子院生が、「それセンセーやってるじゃないですか」とかわいい顔をしてサラ〜っと怖い突っ込みをいれてくる。

 「公序良俗」とか持ち出したら駄目ですよ。そのとたん、ある特定共同体で成り立つ「共通善」を天降り的に持ち出すことになって、コミュニタリアンになっちゃう。
 「親しい人が悲しがる」から自由の侵害だとする理屈も駄目です。独裁体制下で反体制運動に乗り出す人がいたら、その人の親しい人は悲しがるでしょうけど、だから反体制運動をするのは駄目だとはどんなリバタリアンでも言わないでしょう。
 「自殺はOK」とは、リバタリアンならよく言います。しかしこれもそう自明ではありません。リバタリアンにとっては、自由意志に基づく行動を侵害することは「悪」のはずです。時には、賠償を求めて訴えることになる。じゃあ、自殺を止める行為は「悪」なのかということになります。自殺を止められたからといって止めた相手を訴えることは正当なのでしょうか。

 私の考えはこうです。個人の「自由意志」と言うときのその意思決定の主体というのは、大脳皮質だけでないと思います。
 欧米のリバタリアンは、理性だけを個人の主体と考えるきらいがあります。しかしそれは根拠がないと思います。人は人としてあるだけで、個人の尊厳が認められなければなりません。赤ん坊も、いわゆる「植物人間」の人もです。その場合にも個人の自由は尊重されるというところにまで徹底しないと、リバタリアンなんてウソだと思います。
 そうだとすると、大脳皮質の独断で決定したことが、その個人の他の身体的主体や本能的主体の自由を侵害するかもしれません。我が意識がなくなったら尊厳死させろと大脳皮質があらかじめ指示していたとしても、いざそうなったら身体はいやがるかもしれません。自殺すると決めても身体はいやかもしれません。臓器移植すると決めても臓器はいやかもしれません。(移植してもいいですかと臓器に聞いてみたら、同意したのと拒否したのはどれでしょうか。答え。同意したのは肺。拒否したのは脳。チャンチャン♪)

 だから、理性の決めたことだとしても、同じ個人の、理性以外の主体の自由を侵害するならば、やはりそれは認めないのが正しいと言えると思います。
 でも、身体や本能などの多様な主体を一個人の中に認めたとしても、実際にはその望むことなど外からはわからないし、現実には大脳皮質に全人格を代表させるしかありません。お前の身体はこうすることを望んでいるのだと他人が押し付けることは、パターナリズムの典型でリバタリアンの敵です。そんなことを認めたら、自由の侵害がとめどなく広がってしまいます。

 ではどうすればいいか。
 結局は大脳皮質による表明によって近似的に判断するしかないです。それは、その意思決定を何度も繰り返し再吟味して、やっぱりやめたという取り返しがきくことだと思います。頭で合意はしたものの、実際やってみて心身の苦痛に耐えかねたとき、やっぱりやめるといってやめられなければならないということです。
 「奴隷契約」だって、実際やってみて耐えられなかったらやめれるかどうかですね。私は耐えられても、マスゾエさんは三年で根を上げた。それでやめられたからよかったわけで、やめられないなら正真正銘の奴隷契約で無効だということです。
 現実には、自宅を売る契約なども、一回売ったら取り返しが効かないかもしれませんが、原理的には復帰可能です。国がお金を出すか何かをして全く同じ家を取り戻すということは原理的には不可能ではないです。
 しかし、腕を一本もいで売ったら、物理的にもう二度と取り返しが効きません。自殺はもちろんです。こういうのは原理的に再吟味不可能ですから、合意があっても無効とすべきだと思います。覚醒剤取引も、一回経験したらもとに戻るのが非常に困難になる。覚醒剤を使わないという判断を選べる状態に戻れなくなる。だから禁止していいのだと思います。志願兵契約も、リスクを承知して合意するかぎりいいかもしれませんが、絶対に死ぬ作戦は無効ということになります。児童ポルノや児童売春も、子どもの心に取り返し不可能なダメージを与えるから、合意があっても禁止していいのだと思います。何歳以上ならダメージがなくなるかは人によって違うかもしれませんが、一人一人吟味する基準が設定不可能な以上は、ある年齢で線を引くしかないのだと思います。傷害デスマッチとか暴行ビデオも、全く元通りに再生不可能とは断定できないでしょうけど、そうなってしまうリスクが保険が成り立たないくらい高いと思いますので、たとえ合意があっても禁止されることが正当化されると思います。

 このように、身体的、本能的主体も含めた諸個人をベースにして、その自由に対する侵害を批判する立場、しかも、特定個人の意図に基づく侵害だけでなくて、人々のお互いの行動の合成結果で、人々の振る舞いの予想が一人立ちすることによって、自動的に押し付けられる自由侵害をも批判する立場は、マルクスの疎外論の立場にほかならないと解釈しています。拙著『「はだかの王様」の経済学』とか『図解雑学マルクス経済学』で書いたことはそういうことです。

 今週はこのあと土曜日に金沢で置塩研究会なので九州へは帰宅してません。10日に金沢で新聞社の取材を受け、火曜日から大学で授業、金曜日から、我がキャンパスで行われる応用経済学会とそれにくっつけたセミナーの開催業務があって、16日夜やっと帰宅。18日にはまた滋賀に出講するというスケジュールです。応用経済学会でコメンテーターする論文をまだ読めていない。22日、23日の富山大学での日本経済学会でコメンテーターする論文もまだ読めていません。この間には18日までにさる重要業務の原稿も書かなければならないのに一字も書いていないし…。


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