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13年11月5日 シノドス連載開始の件と成長論の解説論文



 「半沢直樹」って、ドラマは見てなかったけど、実は原作は読んでたんです。
 あれは、主題はバブル世代男の悲哀を描くことであり、それでいてバブル世代(男も女も含めて)讃歌なんですよね。
 だから、妻は当然「バブル女」!
 銀行で追いつめられ、家で追い打ちをかけられる。最後には上司をやっつけることはできても、家では手も足もでないまま。そこに共感と自虐的な爽快感を感じる小説でしたけど。

 そしたら、どうもドラマではバブル女ではなかったようで。
 ずいぶんな良妻に描かれていたそうで、そんなのなんのためにこのお話があったのか存在理由が問われると思った次第。
 上戸彩のバブル女とか、そそるものがあると思ったんだけどな。まあ年齢が合わなさすぎなんだけど。一回りは違うだろ(笑)。

 ところで、今日もまあ、ずいぶんなアハハな日だったぞお。
 大学院生から『資本論』を読む機会を作ってくれと言われていて、今日読書会をする予定だったのですが、朝起きて教授会があることに気づいて謝りのメールをすることから一日が始まりました。
 JRの快速に乗ってあと一駅おいて博多という、到着時間が見えたところで、新幹線の携帯予約をしようとしたら。いまだに使い方がよくわからないスマホなのですが、週末ずっと充電していたつもりで、実は充電されていなかったことが判明。電池切れと表示して真っ暗になります。周りに気を遣いながら慌ててノートパソコンと通信装置を取り出し、何度かしくじりながら予約しました。
 というつもりが、新幹線の改札を通れない。
 駅員さんに調べてもらったら、間違えて新大阪発東京行きを予約していたという!またあわててノートパソコンと通信装置を取り出して、電波通りの悪さに焦りながら、関係ないページに何度も入ったりしてしくじりを繰り返し、やっと予約変更手続きのところに辿り着くと…時間切れで間に合わなかった〜。
 お金が戻らないのかと思ったら、駅員さんによれば、乗ってないならば翌日手数料を引いて自動的に戻るとのこと。

 で、教授会が終わって、研究室に戻り、目下直面している手続き仕事にかかったのですが。
 先日、去年の内地留学先の九大数理生物学研究室の巌佐先生とユスプ特認助教と書いた共同論文の審査結果がきました。修正要求があったのですが、九大の人たちは速攻で修正作業を進めるし、ほとんど私は修正作業には貢献しないうちに、残り二人がやってくださったのをフォローして提出事務しただけでしたけど。
 そしたら、昨日雑誌から、形式上の修正を要求する電子メールが来たのですが、ここの前振りのreceived(受け取りました)をaccepted(掲載受理)と勘違いして、夕べ共同研究者に「受理された」とか喜んでメールしちゃいました。
 今日、その形式上の修正作業をしようとして、メールを見直してようやく気づいた次第。
あ〜、はずかしい。
 提出を受け取った通知は機械で自動的にきているので、また改めてそんなことを知らせるはずがないと思い込んでいたもので…。
 この論文作成の過程では、シミュレーションの担当者にさんざん数値計算を出してもらったあげく、まとまる寸前で式の間違いをしているのに気づいて全部ひっくり返してしまったし。迷惑もいいとこだわ。またこんなことして、どんだけ不注意な人かと思われただろうな。すみません。

 さて、『経済科学通信』の論文原稿が二本9月末締め切りで重なって、結局一本は10月に持ち越したのですが、10月は冒頭から専修大学で学会があって、そこに学会の幹事会とか共著の打ち合わせとかをくっつけてあるし、さらに今度は経済理論学会の特集論文の原稿締め切りが10日に切られ、もちろん守れるはずもなく…。
 てな中に、こういうときにかぎって地元市議会議員の後援会通信の編集作業が入ってくる。さらに上記共同論文の提出事務もあったりして。

 そうこうしているうちに迫ってきたのが、ウェブ雑誌のシノドスの連載の初回の原稿締め切りです。18日まで、遅くても21日までというお達しでしたけど、経済理論学会の雑誌の原稿ができたのが17日。18日は後援会通信の発送作業と久留米大学での講義で日中つぶれたので、もちろん「遅くても」の方に合わせて週末二日で書き上げました。

 10月24日に掲載されましたので、「遅ればせながら」のお知らせなのですが、こちらです。
リスク・決定・責任、そして自由! 掲載第1回:「小さな政府」という誤解
 この題名も、担当者の方の提案に修正メールを繰り返して、前日にやっとできたんですけどね。

 そしたら、掲載後早速、コメントのブログ記事をいただきました。いつも楽しく読ませていただいているuncorrelatedさんのブログ「ニュースの社会科学的な裏側」です。
あるマルクス経済学者のプロパガンダ(1)

 そう。何を隠そうプロパガンダのために書いているのですけど(笑)。お取り上げいただきまして、ありがとうございます。「1」ということは、今後連載が進むごとにお取り上げいただけるのかな。
 「学者の文章らしくなく」って、いやーん誉めてるのぉ。編集者様から「学者の文章だ」とか言われた日にゃ、100%けなし言葉で、十日は立ち直れませんし。
 まあ、お書きいただいている内容に関しては、リンク先のコメント欄をご覧下さい。結構専門的なやり取りで多くの読者のみなさまには申し訳ないですが。

 しかし、あまり拙文の内容とは関係ないところで、ちょっと誤解があるようなので説明しているうちに、延々議論が長引きました。とうとう最後まで納得されていないみたいなのですが、もし同様の認識が一般的だったら、僕的にはちょっと残念なので、とうとう解説論文を一本書いちゃいました。「アカデミック小品」のコーナーに挙げておきますが、ここにも直リンクしておきます。
成長論モデルの基本構造──恒常成長への収束性と市場調整の安定性が別問題であることについて MSWord25KB
 一応、経済学専門の大学院生とか、ちょっと進んだ勉強をしている学部の高学年生以上のレベルを想定して書きました。例によってくだらないミスは残っていると思うので、発見したかたはお知らせ下さい。

 ひとつの論点は、経済成長論の数学モデルで、時間を通じて運動する変数が一定の値に落ち着いていくことと、そのモデルで、売れ残りや品不足、失業や人手不足といった市場の不均衡が、自動的に解消される仕組みになっているかどうかということは、別の問題だということです。私としては、これはほとんどの種類の経済モデルに共通する構造からくることだと思っているのですが、これが納得いただけていないことのひとつです。
 それから、市場が自動的に均衡しない理論モデルは、生産関数が上に丸い右上がりのグラフをしていないとか、企業や家計が自分が最適になるような合理的決定をしていないとか、不均衡があっても価格や賃金がスムーズに動かない想定をしているとかいう思い込みをされているようなのですが、そんなことはないということです。これらのことを全部前提しても、市場が不均衡になる理論モデルを作ることはできます。

 最後のコメントで、「マルクス経済学者の間では阿吽の呼吸で通じるのかも知れませんが」とおっしゃっているのですが、残念ながらマルクス経済学の世界の中でこそ、「新古典派成長論のスムーズな収束が市場のスムーズな調整を表しているのだ」と解釈したり、「限界生産力理論は悪魔の理論で不均衡論は固定技術を想定しなければならない」と思い込んでいたり、「価格硬直性こそ資本主義批判者の当然の前提」とみなしたりする人で、いまだにあふれています。
 そうではないということを言ってきたのが、私の全学者キャリアを貫く姿勢だったのでして、10年以上前(1999年)にこんなマクロ教科書を出しています。
『標準マクロ経済学――ミクロ的基礎・伸縮価格・市場均衡論で学ぶ』
標準マクロ
 家計や企業が自分が一番最適になるように行動することから、いろいろな式を導き出してくるとか、価格がスムーズに動いて、(労働市場以外の)市場は均衡するとか、そんな、かつては資本主義擁護論者の典型的手法と考えられていた手法を使って、IS−LMなど、標準的ケインジアンの「どマクロ」モデルを導いています。もちろん失業は出てくるし、景気対策の話も出てきます。このタイトルには、「ミクロ的基礎・伸縮価格・市場均衡論といった手法を前提しても、従来の標準マクロ教科書が書けるんだよ」という意味と、「これこそがこれからの標準」という意味を込めています。
 これを、当時勤めていたような地方私立文系大学でも使えるように、微分は一切使わず、四則演算とグラフだけで説明しています。

 しかし、当時まだ本作りよく慣れてなかったもので、校正ミスしまくってましてね。ここにまとめてありますけど。初刷は山のようにミスを出して、二刷で大部直したつもりがまだ致命的なミスを残した上、編集者との意思疎通がうまくいかずに、かえって改悪した箇所があります。三刷でやっときれいになったと思いきや、ケインズの『一般理論』の正式書名を書き間違えていることが判明!
 いやはや。

 ともかく、なんだか、ヤ×ガ×ヒ×オからは反経済成長論者にされるし、コミュニタリアンにされたり民主党支持者にされたり、なんか一番一緒にされたくないものばかりに見られるというのはどうしてだろう。このうえに、固定係数論者と見られたわけだし。これらをモンタージュすると、日頃批判してやまないタイプが浮かび上がってくるのですけど。

 ところで、別の論点ですが、拙文で70年代のスタグフレーション時代の話で、財政支出の拡大がインフレをもたらした旨のことを書いたら、ブログで英米の話がいつの間にか日本の話にすりかえられているとのご指摘を受けました。「英米」とは書いてないとコメントしましたら、財政支出の拡大でインフレになったのは英米で、日本は石油危機のコストプッシュでインフレになったのだとのお答えでした。
 いやそもそも拙文の文脈としては、当時人々がどうとらえたかが大事で、こちらは財政支出のせいでインフレになったとのケインズ政策批判が通用してしまったのを困ったことだととらえる立場にあるわけです。実はそうでなかったならば、拙文全体の文脈にとってはかえっていいことなのです。(ちなみに、ご批判の中では「財政赤字」と表現されていますが、拙文では「赤字」とは書いていません。たいした問題ではありませんが。)
 残念ながら私にとってそんなうまい話ではなく、やはり現実には財政支出が(金融緩和の裏付けがあって)インフレに効いていた効果は否定できないと思いますけど。

 ところで、田中秀臣さん編の共著『日本経済は復活するか』(藤原書店)が出ました。私は「本来左派側の政策のはずだったのに」という文章を書いています。前に藤原書店さんの『環』誌で書いたものが元ですが、少し書き足して、典拠を注記しています。安倍さんが救国のカリスマになってしまう危険への危機感を改めて強調しておきました。
 今日はもう宿舎が閉まってしまうので、明日、著書のコーナーに挙げることにします。



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