松尾匡のページ11年11月3日 またまた『茶会新報』ほか五ネタ
トップページにも書きましたが、このサイトで自分の本『痛快明解経済学史』のことを、一貫して『痛快明快経済学史』と書いていたことに気づきました。って言うか、自分の本の正しいタイトルを出版後二年もしてはじめて認識した次第。OΓ乙。
それで気づいた限り修正しておきました。本来ならば、取り消し線を引いて修正箇所がわかるようにしておくべきところでしたけど、この場合、書名で検索をかける人が出ると思いますので、引っかかるようにきれいに直しておきました。
さて、夏休みに書き上げるはずだった新書原稿は、まだA4で5ページほど書き出したばかりで進んでいません。言い訳すると10月はじめには前回のエッセーで書いた報告があってしばらく論文作ってたし、10月末には自分が編集委員している経済理論学会の雑誌に載せる書評原稿の締め切りがあったし。その書評書き終わったら、地元の市議会議員の後援会通信の編集長の仕事がちょうど大詰めで、おととい最終稿ができて印刷にかかってもらったのでやっと少し手が空きました。
もともと子どもの頃から肩から背中が凝っていて、人生こんなものだと思って生きてきてまして、だいぶ大きくなってから、ああ世間で「肩が凝る」って言っているのはこのことを指していたのかとわかった次第。それがこのところ耐えられない状態になって、とうとう姿勢を変えると痛くて動けなくなったので、自宅の近所の鍼灸院に通い始めました。
毎日ちょっとしたことで疲れもひどくなってきたし、まぶたがぴくぴくするようになったりもして、全身ガタガタ言いながら動いているなと自覚する今日このごろです。屋内がまだ暖房が入ってなくてかえって寒いので、晴れた日は日だまりで光合成するようになっています。
ちょっと手が空いたので、新書原稿にかかる前に近況ネタをいくつか。
◆ 10月28日に本サイトのトップページに、日経の「日銀、追加緩和を決定 国債買い入れ5兆円増」記事へのリンクに続けて、
たった一人でよくがんばった...(*'-')//”
と書きましたけど、言うまでもなく、宮尾龍蔵日銀審議委員が、政策決定会合の場で、資産買い入れ基金を10兆円増額し60兆円とする議案を提出して他の全員の反対で否決され、5兆円増額に一人だけ反対したことを指しています。
10兆円で十分かという話もあるだろうし、こんなこと書くとまた「身内集団原理w」とか言われそうですけど、すなおにえらいと思う。自分がこんな場にいたら、一人だけまわりよりまっとうなことを言えるかというと言えそうにないですから。将来こんな場面に直面したら、せめて宮尾を思い出して心の支えにしよう。それでも心もとない自分だけど。
◆ 先日2ちゃんねるでニセの元ゼミ生がボクのゼミについてデマを書き込んでたのでびっくり。
立命館のゼミ生って、こないだの春卒業したのが最初なので、OBOGは20数人しかいない。その上に、住んでるエリアが表示されるので、もしリアルゼミ生なら、誰が書き込んだか絞り込まれてしまいます。合理的に考えて、そんなリスクのある行動をとる人はいません。最初からニセモノって明らかです。
まったくウヨって、どんな卑劣な手段でもとるんだなとあきれも果てるわ。
◆ ウヨと言えば...。こないだ、弟子の熊澤が研究室にきて興奮して言うには、「通貨スワップ協定って何でしたっけ?」
なんでも、こないだの「日韓スワップ協定拡大」に関して、ネット世論が「韓国助けるためにカネ融通するなどケシカラン」というの一色で、なんだか自分の認識の方が間違ってるような気がして、スワップ協定のこと調べ直したりまでしたとのこと。
調べ直すまでもなく、韓国に輸出している日本企業が輸出代金回収できなくなって倒産したら困るので、輸出企業救済のためにやるのですけど。どの国でもやることで、そのためにみんなこういう協定を結んでいるんですけど。
ウェブ見てみたら、ここにわかりやすいまとめがありました。
通貨スワップと通貨スワップ協定のおさらい、そして日韓スワップ協定とかIMFとか
ここの説明者も結構偏見が多いと思うけど、でも事実関係はまあ正しい。書いてあることを要約すると...
・韓国からの資金逃避による外貨不足で、韓国に輸出している日本企業が代金回収できなくなると連鎖倒産が起こるので、それを防ぐのが主目的の貸し付け。
・韓国への1年間の輸出額だけでも600億ドル以上なので、700億ドルの枠は妥当な額。
・これまで円高防ぐための介入で買ってきたドルを使う。このドルは円に戻すと円高になるので国内では使えない。今まで塩漬けにしておくしかなかったおカネ。
・一定額以上のドルを引き出すとIMFが乗り出してくるので、そうなるとガッチリ回収される。(ボクは知らなかった。)
ということです。
そしたら、これだけ説明しても、ここにはこんな書き込みが。
「だったら日本企業に直接金払えばいいのにと思う人はリツイート。」
「韓国ではなく日本の企業に支払うほうが日本国民は歓迎する!!」
愕然!
いや日本企業に払ったあと、それあとで返してもらうのかな。だとしたら、スワップ協定の枠組みだったら企業は代金回収しておカネ自分のものにできるけど、あとで政府に返さなければならないなら、あんまりありがたい方法じゃないんですけど。
それとも日本企業にはおカネあげてしまうのかな。だとしたら政府には戻らないし、何より、それって、韓国側を支払い免除して日本の公金で肩代わりするってことですけど。
この人たち自分では「嫌韓」のつもりで書いてるんだろうなと思うけど、普通あり得ない韓国優遇策を主張している。「日本企業への直接払い=韓国側支払い免除」ってそんなに難しい思考ですかね。それともわかってて書いてるのかなあ。
ウヨがこんなレベルだってことは、こっちとしては本来なら喜ぶべきことなんだろうけど...。熊澤は、世の中こんなにウヨだらけなのかって驚いたって。こんだけ多くなってしまって、世論に影響も出るだろうと思うと、やっぱりこんなレベルであることをすなおに喜べませんねえ。
◆ まあこのスワップ協定の件は、世の中にいかに「食うか食われるか」で世界を見る「反経済学的発想」が蔓延しているかということだと思います。
「反経済学的発想」と言えば、あるこれまで知らなかったボクの読者のかたからメールをいただきました。内田樹さんのこのエントリーを怒ってやれとおっしゃるのです。
http://blog.tatsuru.com/2011/10/20_1207.php
http://blog.tatsuru.com/2011/10/25_1624.php
う〜〜ん、たしかに見事に「反経済学的発想」丸出しのトンデモ論だ。
でもですね、いろいろあげつらって切って捨てるのは簡単ですけど、経済学のしろうとの人のこういう議論って、結果として同意できるところとか、意図のまっとうさとか、活かせる部分をどう救うかということが大事になると思うんですね。そしたらなかなか議論が込みいったことになって簡単にはいきません。
こないだ書いた書評原稿は、関根順一さんの『基礎からわかる経済変動論』(中央経済社)についてのものです。ここで、ボクがこの本を誉めたことの一つは、「短期」の景気循環と「長期」の経済成長を区別して論じるオーソドックスな構成をふまえてあるということです。これって、ボクの『不況は人災です!』でも書きましたけど、多くの経済学者はあたりまえのつもりでいて意識していないのですが、案外一般には認識されてなくて、この点が身に付いているかどうかが経済についての議論が混乱しないための鍵のような気がしています。
つまり、どんなに景気がよくなっても、失業者を雇い尽くしたり、生産設備をフル稼働したりしていたら、もうそれ以上は生産を増やすことはできません。それが経済の「天井」になります。長い目でみたら、経済はこの「天井」の成長によって制約されることになるわけです。この「天井」を成長させようとしたら、人口成長を高めるか、生産性を上げるかなにかしなければなりません。
「天井」が大きく成長することは、それに見合って機械や工場などの生産設備もいっしょに成長しないといけません。フル稼働ですからね。だから、経済全体の生産のうち、消費ではなくて、機械や工場など設備投資にあてるものを生産する割合が比較的高くないといけません。逆に、「天井」がさほど成長しないならば、経済全体の生産のうち、設備投資財を生産する割合は少なくてよくて、消費財生産の割合が大きくなっていいです。
そしたら、この「天井」の成長が高くなること自体は、必ずしも人間にとって目的ではないですね。将来の豊かさのために、今消費は抑えて設備投資財の生産の割合をある程度確保するのが理にかなっていた時代もあったかもしれませんけど、今の日本の場合は違うでしょう。設備投資財の生産の割合を減らして消費財生産の割合を増やした方が、みんなが豊かになれるという判断もあるでしょう。その場合には、「天井」の成長が低い方がいいということになります。
ところが、景気循環の各局面の話というのは、これとは全く次元の違う話です。「天井」の生産は、供給能力いっぱい使ったときの話ですが、実際の生産は、今みたいに設備をたくさん遊休させたり失業者があふれたりして、「天井」どころか「床」を這い回っていることだってあります。
これは、総需要で生産が決まる話です。総需要が高ければ生産が高く、総需要が低ければ生産が低い。このとき、総需要がのびていって、それに合わせて生産がのびていくとき、その構成がどうしても決まるわけではありません。「天井」の成長ならば、成長率の高低と、総生産の中の設備投資財の占める割合の高低が必然的に対応しますけど、遊休いっぱい失業いっぱいの不況から、景気が拡大して生産がのびていくときの場合には、その成長率がどれだけ高くても設備投資財生産の割合が高くなる必要はありません。総需要の拡大が消費需要の拡大ならば、消費財生産ばかりが成長しても、まったく不都合はないわけです。もっぱら福祉支出が増加することで、介護産業の雇用が拡大することが主導する景気回復があってもおかしくはないのです。
だからこの場合には、消費需要なり福祉需要なりが増大することで景気が拡大し、雇用が増えていくことに反対する理由はありません。完全雇用を実現するための経済成長は必要なのです。
2003年ごろから08年ごろまで続いたいわゆる景気「拡大」は、消費需要はほとんど増えず、設備投資ばかりに主導された生産拡大でした。大衆消費に支えられていないから脆弱なフラフラの景気でした。それだけではなくて、このような生産構成のまま完全雇用にまで至ったならば、必ず困難にぶち当たるはずでした。なぜなら、今労働人口が減っている時代ですので、「天井」の成長率はとても低いからです。その低い「天井」成長とつじつまの合う生産構成は、消費財の生産割合が圧倒的で、設備投資財の生産割合はとても低いものでなければなりません。ところが、当時の成長は設備投資ばかりが拡大してもたらされましたので、年々設備投資財の生産割合が高くなっていて「天井」の成長とつじつまが合わないのです。完全雇用にぶち当たったならば、早晩、設備投資需要が減って、たちまち不況へと転落すること必至の、ダメダメ景気「拡大」だったのです。
まだリーマンショック前に、こんなことを拙著『「はだかの王様」の経済学』の序文で書いたら、山形浩生さんから、とっても的外れな批判を受けてしまいました。それをめぐって、このエッセーコーナーで何回か議論になったことを、以前からの読者のみなさんは覚えていらっしゃると思います(こことここ)。ちなみに、この序文は、アマゾンの中身検索で読めます。
結局山形さんには納得していただけなかったと思うのですが、山形さんって、それなりに経済書も訳してるし、経済学的議論に慣れていると思いましたので、これはショックなことでした。
それで、『不況は人災です!』で同じことを書くときには、もっとわかりやすく書こうとしたのですが、それでも編集者の人には「難しい」と言われ、何度も書き直しをやり取りしてやっと認められました。
そんなこともあって、説明の仕方を何度も何度も頭の中で練り直してきたつもりなのですが、今回は少し進歩したかな?
さて、この20年の日本みたいに、総需要が低くて不況になっちゃうのは、みんながデフレ不況が続くと予想して、そのもとで自分にとって一番ましになるように振る舞ったら、みんな支出を切り詰めるのがいいってことになるので、結局総需要が少なくて本当に予想通りデフレ不況になるからです。
つまり、市場の自由にまかせておくだけならば、いつまでも不況が続いてしまうわけです。
だからこの場合には、公的な政策によって総需要を拡大して雇用失業を減らしていく必要が出てきます。(11年11/4 小川様ご指摘により修正)
ところが、完全雇用の「天井」に達したならば、今度はフルに使われてしまっている労働を、どんな部門にどれだけ配分するかが問題になります。失業があるならば、どこかの部門を拡大しようとすれば失業者から雇ってくればよかったけど、完全雇用なら、どこかの部門が拡大すれば別の部門は縮小させなければなりませんから。
結局のところ、世の中にどんなニーズがどれだけあるかなんて、どんな賢い政府にも把握できませんので、ニーズにあわせた無駄のない資源配分は、民間人一人一人の自由な選択に任せて市場メカニズムを働かせるしかないというのがオーソドックスな主流派経済学の結論になります。
あるいは、労働が足りないなら労働生産性が上がる技術開発をする、電力が足りないなら電力を節約する技術開発をする等々といったことも、民間人の自由な工夫にまかせることで興ってくるという考えになります。要するに、総需要サイドの管理には公的な政策が必要になるけど、総供給サイドは管理なんかできない。こっちは民間の自由にまかせるべきだというのがオーソドックスな教科書的主流経済学の常識なのです。
ところがなぜか世間では、不況を克服して失業を解消するための政府介入には、「子孫に財政赤字のつけを回すな」とか「バラマキ」とかなんとか言って反対するくせに、そんなことを言っている人にかぎって、長期的な「天井」の成長については「成長戦略が重要」とか言ってみたり、供給能力の話になると目を輝かせて、電源開発政策や資源確保政策や技術開発支援に公金をかけることを主張したりしがちです。まったくもってアベコベの議論なのですが。
主流派の新古典派経済学が推奨するいろいろなことは、この、経済の「天井」の完全雇用状態を前提して話が組み立てられていることが多いです。
まずもって、「競争」を説くことは経済学の金看板みたいなものですが、これは本来、がんばらせるためとか優勝劣敗の淘汰のために言われているものではありません。社会の様々な欲求に合わせて最も都合よく労働等の生産資源が配分されるように、人々が生産部門間を自由に移動できるために言われているものです。
ところがこれを失業いっぱいの不況の真ん中でそのまま適用すると問題が起こります。不利を悟った人が別の部門に移動しようとしても、脱落したらただ失業者になってしまうだけですから。
「社会保障の財源のために増税」といった話も同じです。完全雇用を前提するから、総生産の大枠は決まってしまってその内訳の配分だけが問題になり、貨幣はただの媒介物になります。
つまり、高齢化すると、介護などのために労働資源を今までよりさかなければならなくなり、さらに、高齢者や介護労働者が暮らすための消費財を作る労働資源も必要になります。そのためには今までその他のものを生産していた労働をその分減らしてまわしてこなければなりません。増税というのは、このための労働を浮かせるためになされるものです。
例えば、消費税を広くかけるということは、人々が買える消費財の量を減らすことで、その生産に従事していた労働を浮かせるという意味になります。法人税を上げる場合は、企業が設備投資などの支出を減らすことで、設備投資財生産などに従事していた労働を浮かせるということです。このようにして浮かせた分が、介護労働や、高齢者・介護労働者などのための消費財生産にまわるというわけです。
しかしこのような議論を、失業いっぱいの不況の真ん中で適用すると、やはり問題が起こります。増税で人々の支出が減って浮いた労働者が、首尾よく雇用されるかわかりません。むしろ、失業者がいて雇ってこられるかぎりは、どこかを削って人手をまわしてくる必要はありませんから、増税などせず無から作ったおカネでも対処できることになります。
今話題のTPPで問題になっている貿易の自由化も同じです。
ある財を直接自給生産するよりも、別の財を生産して、それを輸出した見返りに外国から入手した方が、少ない労働ですむならばそうすべきだという議論です。だからやっぱり自給してたときと比べて労働が浮くのです。浮かせるのが目的なのです。浮いた労働は介護などにまわすことができるというわけです。
しかしこれも失業いっぱいの不況の真ん中でやったら、浮いた人手はただ失業者になるだけです。
小泉「構造改革」も「天井」の成長率を上げようという改革でしたし、やっぱり完全雇用前提してはじめて意味があることだったと思います(だとしても賛成しないが)。
これらの新古典派推奨の諸政策は、何か、これをやったら景気がよくなるといったような宣伝とか思い込みがあるみたいなのですが、間違いです。いずれも経済全体で見た供給能力を、何らかの意味で適切なものにしようという政策です。不況から景気を良くするための経済成長とは全く関係がありません。むしろ、不況の真ん中でやったら総需要が冷え込んでますます景気を悪くします。
小泉「構造改革」は不況の真ん中でやるもんではなかった、そのせいでひどい目にあったというのは、民主党がさんざん宣伝して政権についた教訓だったと思うのですが、同じことをTPPでやろうとしているのですから、いったい何を学んだのかと言いたくなります。
ボクは政治的なことはわかりませんので、急ぐ事情というのがあるのかもしれません。しかし、仮にそうだったとするならば、早くTPPに参加しなければならないから、そのためにあらゆる手段を使って、まず一刻も早く完全雇用を実現するということを、政府は言わないといけないでしょう。少なくとも、震災復興のための増税や社会保障財源の消費税引き上げに執念を燃やし、国債の日銀引き受けは絶対しないと明言している政権がやるべきことでは決してないと思います。
いやそもそも、貿易自由化しても、円が十分安ければたいした打撃はないはずです。円高がここまで悪化するのを長いこと放置してきた政権のもとで貿易が自由化されたら何が起こるのかと思うと恐ろしくてたまりません。
それで、以上の準備のもとで、内田さんのエッセーです。
これを批判しろと言われてもちょっと困ってしまうのは、内田さんが結局おっしゃっていることは賛成なんです。「経済成長が自己目的なのではなく雇用のための手段だ」という点はですね。それで、現状のままでTPPに参加しても、輸入品に勝てずに潰れた産業の人はただ失業者になるだけで、何も良い目を見ないだろうというのもそのとおりだろうと思います。
しかしこれを導いた議論がトンデモだらけなのですが、それをいちいち突っ込んでいたら、一行ごとに突っ込むことになって大変です。
だから、なるべく基本的なところに絞って議論したいのですが、まずもって、内田さんが批判されている相手の主張は、「生産性の低い産業セクターは淘汰されて当然」とか「選択と集中」とか「国際競争力のある分野が牽引し」とかいうものだそうです。国際競争力のある分野に資金と人材を集中的に投入する。それが成功すれば経済は活性化する。消費も増える。雇用も増える。貧乏人にも「余沢に浴する」チャンスが訪れる...と。誰がこんなこと言っているのか知らないのですが、少なくとも、主流派の新古典派も含め、まともな経済学者でないことはたしかでしょう。だから、内田さんもそのへんは慎重に、「エコノミスト」とか「グローバリスト」とかと呼んでいて、「経済学者」とは書いてありません。
この内田さんの仮想敵の議論は、全く経済学的ではないのですが、しかし、たしかに一部の御用評論家やマスコミにはいかにも見られそうな議論ではあります。それに過去30年、こんな言い方で世界の政治家が新古典派経済学を誤用してきたのも事実でしょう。だからこれを叩いておくということは意義のあることではあるでしょう。
だいたいこういう手合いは、新古典派経済学が推奨することを、完全雇用の条件を無視して、失業者があふれている状態にまで直接あてはめ、しかもそれが何か景気対策になるかのように言います。上述のように、それは全く間違いです。もともと新古典派経済学者の問題意識は、労働を浮かせて必要とされるところに移動させることにあるのですから、それで雇用が増えるわけではないです。
特に、自由貿易というのは、経済を活性化されるとかそんな目的で言っていることではありません。
一般には誤解が多いのだと思いますが、貿易の自由化のメリットは、貿易黒字を増やして雇用を増やそうという話とごっちゃにされることがありますが、全く違う話です。自由貿易のメリットは、輸出の方ではなくて、むしろ輸入の方にあります。安いコストでモノが輸入できるようになるので、浮いたコストをもっと必要なもののためにまわすことができるということです。貿易黒字で雇用を増やすためには、逆に輸入は邪魔になります。
貿易黒字を増やして雇用を増やそうという話は、失業たくさんの不況であてはまる話ですので、自由貿易論のような供給側ではなくて、もっぱら総需要側の話です。だからここでは「国際競争力」などという意味不明のマジックワードの出る幕はありません。生産性のような供給側の条件が影響するのは、その国の得意な産業の順番だけです。それが得意な順にどの産業まで外国より安くなって輸出でき、どこから外国より高くなって輸入することになるかは、もっぱら為替相場によって決まります。高給労働者が徒手空拳だけで生産している並の品質の商品があったとしても、円がムチャクチャ安くなればいくらでも「国際競争力」を持ちます。
そもそも自由貿易を説いたリカードの比較生産費説が教えることは、あらゆる点で他人よりも「劣った」人だって、立派に世の中の役に立って他人から見返りを受けて生きていくことができる、何の役にも立たない人なんていないということです。内田さんの見る自由貿易論者の「競争で勝ち残れない日本人はひどい目に遭ってもしかたがない」などという発想とは正反対です。
こんな議論に対しては、理論のあてはまる次元をちゃんと振り分けましょうというだけです。輸出を増やしたいなら、関係ない供給サイドのことは言わないで、金融緩和して円を安くすること。それだけ。景気をよくしたいなら、「競争」とか「生産性」とか関係ないこと言わないで、総需要拡大政策をとること。それだけです。
しかし内田さんは、自分の設定する論敵の議論をまともに受け取って、同じ枠組みの中で批判しているのですね。
内田さんの論敵は「生産性の高い産業は生き残れ、生産性の低い産業は滅びろ」と言っているようです。でも「生産性」って何でしょうか。商品が変われば量を測る単位も違うのに、どうやって生産性を比べるのでしょうか。金額に換算するならば、例えば診療報酬をムチャクチャ引き上げれば付加価値生産性が高くなりますけど、それでいいんですか。全く意味不明の概念です。それなのに内田さんは、この概念をそのまま使っています。
そして、「食うか食われるか」の図式で世界経済を見る見方は論敵と全く同じまま、自由貿易の結果は、一部の生産性の超高い多国籍企業が一人勝ちし、他の多くの生産性の低い産業が滅びてしまう結果になるだろうといいます。「TPP推進論者たちは、農業もまた自由貿易に耐えられるだけ生産性を高めなければならないと主張している。だから、アメリカでやっているようなビジネスライクな粗放農業を提案している。だが、それによって完全雇用の機会が遠のく」とおっしゃいます。
福祉事業の一環としての老人菜園みたいなのは「生産性」が高いのかな低いのかな。消費者と農薬・肥料の使い方を直接協議して作る産直宅配(グリーンツーリズム付き)みたいな事業は「生産性」が高いのかな低いのかな。都市居住者が共同で郊外に持って休日に農作業に行くレジャー菜園は「生産性」が高いのかな低いのかな。十分な総需要拡大政策で完全雇用が維持されれば、このようないろいろな取組みが考えられます。みんな手間ひまはかかりそうですけど、こういうのも「生産性が低い」って言うんですかね。自由化しても伸びそうですけど。
◆ またまた『茶会新報』がへんなこと書いている。
11月2日付け『茶会新報』の5面経済コラムで、また例の「宇野雄」名の文章が載っているのですが、そのタイトルが、
「海外移転の怖さ=タイ洪水で操業停止=」
ってなってたので、これ見て、
「ふっ、また青いな・・・」
と思ってたんです。
どうせ「帝国主義化の報い」とか何とか、企業の海外進出をクサす論説が書いてあるだろうと思って。
ところが読んでみたら!
青いこと書いていると思った私が青かった
日本企業のタイ進出の様子と、洪水被害の状況が綴られているんですけど、最後の二段落。こうなっています。
これからは財務力や世界での事業展開力もある大企業とは異なり、力のない中小企業も海外に進出しなければ生き残れない時代だ。
今回の洪水のような被害に遭えば、その損失で再建不能な苦境に追い込まれる。超円高でやむなく海外に移転する中小企業に対しては、洪水など自然災害への救済策をあらかじめ整備しておく必要があるだろう。
お、おい、みんなこれいいんか。仮にも社民党の機関紙だぞ!
だいたい、「力のない中小企業」を「やむなく海外に移転」させた超円高への政策責任も何も問わず、そっちの方こそまるで自然災害のように扱っておいて、「洪水など自然災害への救済策をあらかじめ整備しておく」ことを求めるとは。で、どうするんかい。自衛隊派遣するんか。
まあ書いた本人は補償金とかをイメージしてるんでしょうけど、この文章のちょっと前には、「この期に及んでも政府と首都当局、さらに軍部がいがみ合って洪水対策の足並みもみだれている」というような現地当局への辛辣な評価が書いてある。こんな姿勢からは、現地労働運動が実力行使するとか、政変が起こって企業が接収されるとかしたとき、日本政府に進出企業の保護策を求めるようになるまではあと一歩ですよ。
「力のない中小企業も海外に進出しなければ生き残れない時代だ」って、そんな時代に誰がしたって批判が一言あってもいいのに、そっちは運命のように受け取って、空洞化で雇用がなくなってしまう労働者階級の困難には一言も言及がありません。
そもそも、洪水で被災されたタイのみなさんへのお見舞いの言葉もないです。進出企業の洪水被害の話をするならば、日系かどうかは知りませんが、工場から有毒物質が流れ出して付近に被害をもたらしている事件も起こっているのに、そういうことへの批判の言及もありません。
しかもはじめの方では、タイという国について「親日でもあり」と表現している。いろんな国民がいると思うのに、みんなひとまとめにして一国を形容して「親日」。
ネットウヨか!
◆今度は新社会党の機関紙『新社会』11月1日号5面なのですが、ちょっと興味深いことがありました。「『冷戦構造』で大転換した政治」と題して、元参議院議員の紀平悌子さんが戦争直後の様子を書いています。そこに、ひとつ気になる記述がありました。
ドッジライン、シャウプ税制のあと、「金融の抑制とインフレの嵐に耐えきれず中小・零細の企業が次々と倒産、日本経済がまさにどん底をむかえたときに」1950年の朝鮮戦争が始まったということが書いてあるのです。
自分の認識とちょっと違ったので、調べてみました。そしたら、物価指数の「持ち家の帰属家賃を除く総合」は、
1948 189.0
1949 236.9
1950 219.9
と、1950年はデフレになっています。
(戦前基準5大費目指数 − 東京都区部(昭和22年〜平成17年))
倒産の話でしたので企業数を調べたのですが、このかんずっと増加し続けていたので、「就業者数」を調べてみました。そしたら、
1948 3460万人
1949 3606
1950 3572
と、やはり1950年になって減っています。
(労働力状態,男女別15歳以上人口 - 労働力調査(昭和23年〜平成17年))
つまり、インフレのせいで経済がどん底になったように書いてあるけど、本当はドッジライン、シャウプ税制によるデフレのせいで経済がどん底になったのではないかと。
紀平さんって、1928年のお生まれだから、50年には22歳で東京に住んでいらっしゃいました。だからリアルに記憶にあるはずなのです。
しかし、デフレの害悪というのは記憶に残らず、それに先立つインフレのせいとして記憶されていたということです。なるほどこういうもんなのだなあと。
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