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 06年8月26日 書評:稲葉振一郎・立岩真也『所有と国家のゆくえ』


 この数日やっと時間ができたので、このチャンスにと、本を読みまくっている。といっても、同業の知人達には、多忙な中をいつも大量の読書をこなし、しかもブログ更新を欠かさずに、その上、オタク趣味情報も極め続けている猛者が多いので、それとくらべれば恥ずかしい限りの読書スピードなのだが。
 というわけで、この間に読んだものを一つ簡単にご紹介したい。
 

稲葉振一郎・立岩真也『所有と国家のゆくえ』(NHKブックス) amazon bk1 セブンアンドワイ

 いただきもの。僕と吉原さんとの『マルクスの使いみち』に続く、稲葉さんプロデュースの座談形式本ですね。と思ってぱらぱら読んでみたら、おおっ、ちゃんと対談になってるじゃん(笑)。
 立岩さんと言えば、以前、僕の不倶戴天のコミュニタリアン方面からずいぶん評価されていたので、どんな人かと『自由の平等』というご著書を買って読んでみたのですけど、僕の悪い頭ではなかなか文章が読みにくく、よくわかりませんでした。すみません。
 それで、ウチの大学の院生だったのが一人今、何を隠そう立岩さんの弟子になっているので、もののついでに「どうなのよ」と聞いてみたら、僕の思想とそう距離はないはずだとの答え。ふーんそうなのかと、よくわからないままなんとなく納得したけど、気にはなっていたのでした。
 今度の本を読んだらだいぶ理解がいきました。僕と考えが違う点も多いとは思いますが、少なくとも明らかなのは、コミュニタリアン方面から評価される筋合いはなんにもない人だということですね。出発点はあくまで個人にあって、福祉の根拠付けは、歴史とも文化ともいかなる共同善とも無縁な、世界に広がる客観普遍的権利論で切っていくわけですから。コミュニタリアン方面は僕よりこっちを攻撃しなさい。
 立岩さんがコミュニタリアン方面から評価されるのは、徹底した自己所有権命題批判をしているからですね。たぶん。自己所有権命題ってのは、簡単に言えば、「オレが働いて作ったものはオレのもの」と言って、国家権力による侵害を批判する考え方です。で、僕の持論の疎外論的な労働搾取論というのは、「個々人は自由であるべきなのに、労働時間の一部は、納得しないことのために働かされている。これは搾取だ」ってことで、こういう考えは自己所有権命題に似ていないこともない。だから、コミュニタリアンから見れば、立岩さんの方がよくて僕が悪いことになると思います。
 でも、前にも書いたように、俗流自己所有権命題は労働の産物について言っているけど、疎外論的な労働搾取論は活動そのものについて言っているので、元来混同できないものだと思っています。そしてその点は、立岩さんの重大論点でもあると思うのですね。自己所有権命題は個人とその所有物を混同しているけど、それを区別しよう。侵害できない各自に固有なものと、譲渡可能なものを区別し、前者は守るけど、後者は公が取ってもいい。という理屈ですから。
 むしろ僕の方が立岩さんよりもコミュニタリアンに近いかもしれません。疎外論的搾取論が俗流自己所有権命題と違うのはもう一つ、自己所有権は排他的ですけど、疎外論が望む自由な活動は、他者と合意してなされるものも含むことです。だから納得づくで他者のために働くことは「搾取」ではない。したがって、疎外論的労働搾取論が福祉を否定するわけではない、合意による活動として根拠づけるものだと思っています。
 この点は、立岩さんとは違うところで、立岩さんは、個々人が納得するかどうかにかかわらず、「他者の権利を満たす義務だ」と言って、粛々と取っていった方がいいというわけですね。たしかにコミュニタリアンならば、同胞意識なり世間の憐憫なりの共同価値観によって合意が根拠付けられますが、「そんなもの恐ろしい、ガタガタブルブル」というのが僕や立岩さんの立場でしょうから、それはよくわかります。当面何百年かは市場がメインシステムの時代が続くでしょうから、その間は、それにあわせて機械的普遍的に粛々と再分配を行う公的強制システムは必要だと思います。それはたしかになるべく淡々としたものが望ましい。現行生活保護制度のような行政の恐るべき介入が入るものではなくて、基礎所得制度のように機械的形式的なものの方がいいにきまっています。
 しかし他方で、例えば労働運動や市民運動がいろいろな共済組合を組織していくとか、福祉事業の物販をするとか、今でもいろいろやってますけど、これを世界的に広げたり、支援を拡充したり、あるいは、春闘などで賃上げ要求だけするのではなくて、利益の一定割合を指定する福祉事業に寄付するように要求するとかいう多様な取り組みが、やはり必要なのではないかと思います。そしてこうした人々の貢献分は課税負担を減らしていく。こんなふうにして、人々の合意形成の普遍化が進むにつれて、強制に依存するシステムはだんだんと縮小させていることが望ましいと思っています。

 まあそれは僕の持論のアソシエーション論の論点につながる話なのだと思いますけど、アソシエーション論と言えば、この本のアソシエーション論の扱い方はちょっとミスリーディングかな・・・。もともとアソシエーション論は、体制論の意味と、システム論の意味と、運動論の意味と、事業セクター論的意味と四つあって、いろいろな人がごっちゃにして話しているからややこしいのですね。
 この本はアソシエーションという言葉を、「たくさんの協同組合からなる市場経済」の体制のように使っているところがあって、吉原さんもそういう意味に使って批判論文書いていますが、それはあまり一般的な使い方ではないと思います。むしろそうしたイメージは、ソ連崩壊直後あたりにアソシエーショニズムと対立していた「市場社会主義」論のビジョンに近いんじゃないかな。この本では、僕がこういう体制を展望する人のように紹介されているむきもあって、少し心外という気がします。ソ連崩壊直後当時はマル経学界内でもアソシエーション論はなかなか理解されず、協同組合からなる市場経済体制を展望する「市場社会主義」論者から、僕達は「ポルポト」呼ばわりされていたような感じがありますので。
 システム論としては、アソシエーションというのは、市場システム原理とは別のシステム原理をさす概念で、開放的でかつ疎外のない人間関係原理のことです。自立した個人の協同関係ということですね。かつてアソシエーション論が「ポルポト」と誤解されたのは、これが目下目指すべき体制論と思われたからでしょう。でも実は、アソシエーショニストが体制論としてアソシエーションをいっしょうけんめい力説することはあまりありません。だって体制としてアソシエーション・システムがメジャーになるには、まああと500年かそれくらいかかるのではないですか。
 アソシエーション論は、あまり体制論として論じても意味がなく、むしろ運動論としての意味の方が大きいと思います。つまり、アソシエーション・システムを下からだんだん広げていく運動という意味です。このときには、市場メカニズムで協同組合等が変質するメカニズムなどは当然最初から視野にいれるべきものなのであって、手の届く範囲での市場の克服というのは目指さなければならないと思ってます。つまり、注文生産のネットワークを川下から川上に広げていって、ニーズに基づく労働を組織していくことです。
 それと、事業セクター論として、協同組合やNPOなどの事業組織を「アソシエーション」と呼ぶことも一般的ですが、僕は今はあまりこれは使っていません。現実のこれらの事業組織は、アソシエーションのシステム原理でも動いているけど、市場原理やヒエラルキー原理や閉鎖共同体原理といったアソシエーション以外のシステム原理でも動かされています。これらが混ざっている中で、アソシエーションの原理を伸ばしていこうというのが、アソシエーション論の展望なのだと思います。現実にはこれらの組織でも、アソシエーションのシステム原理が消えていくというこことはいくらでもあるわけです。逆に、資本主義企業や行政組織や旧共同体も、様々なシステム原理が混合しているので、その中からアソシエーション原理を伸ばしていくことはできると思います。
 今僕は、アソシエーション原理を伸ばしていくには、市場原理に乗って開放性を伸ばす局面と、共同体原理に乗って合意性を充実させる局面を、交互に交代させるしかないと考えています。このへんは『市民参加のまちづくり「戦略編」』で詳しく書いていますので、アソシエーション論の文脈で僕を紹介していただけるのでしたら、この本をあげていただきたかったと思っています。

 さて、この本の最後の方のいわゆる「成長」をめぐる議論は、立岩さんの経済成長批判には誤解があって、全く稲葉さんが正しいわけですけど、これはもうまっとうな経済学が知られていないせいというしかないです。私達プロの責任です。
 まず経済の天井を成長させる政策と、失業者を出して床を這い回っている経済を天井までもっていく政策とは違います。労働資源を全部使った経済の天井の構造が、成長のために設備投資財生産に労働が比較的多く配分されている構造から、例えば福祉部門に労働が比較的多く配分されている構造に変わることはいいことだと思います。労働資源が全部使われているならば、どこかの労働配分を増やせば、どこかの労働配分を減らさなければならない。福祉に人が要るならどこかで人を減らす。じゃあ昔なら、経済成長のために設備投資財生産に人が要ったけど、もうそんなにいらないだろう、ここからまわそうと。これが、成長を志向しない経済構造への転換という意味です。それはまあ、何が何でもとは言いませんが、おおむね必要な転換だと思います。
 しかし労働が無駄に余らされている状態から、働きたい者みんなが働ける状態にもっていくことはとても大事なことです。これはGDPの拡大を目指しますが、経済の天井を成長させる政策とは別です。極端な話、失業者が全部ヘルパーで雇われたとする。その分GDPは成長しています。しかしこの場合、天井の成長は増えないのです。
 なお、立岩さんには「不況対策としての総需要拡大政策」と言ったら、公共事業でダムや道路を作るイメージがあるようですが、旧来のケインズ派理論と違って、現代的なケインズ理論は、公共事業などの財政支出拡大によらずに総需要を増やして失業を減らす方法を提唱しています。稲葉さんも対談でちょっと触れてはるのですけどね。
 それと、僕も含むたいていの経済学者は「パレート改善」がいいことと思っていて、稲葉さんもそれに好意的ですけど、立岩さんはこの考え方は好きではないようです。「パレート改善」というのは、誰も境遇が悪くならずに誰かの境遇を良くすることで、例えば、二人の人への分配が、もともと(1,1)だったのが(2,10)になるのはパレート改善だからいいというわけです。(5,5)だったのが(4,6)になるのはパレート改善ではないからダメということになります。
 「パレート改善でなければダメだ」という考え方がよくないと言われるのは、金持ちから取って援助を必要とする人に再分配する行為は明らかにそれ自体はパレート改善でないからですが、これは次のように考えてもらえるといいと思います。
 (5,5)だったのが(4,7)になったとして、7から1をとって4に加えると、(5,6)になります。再分配そのものはパレート改善でなくても、最初と結果を比べるとパレート改善されているわけです。(5,5)が(3,6)になるのはこうはいかない。だからこんな変化は起こしてはいけない。適当な再分配によってパレート改善が実現できるような変化をするように経済政策を行うべきだということになるわけです。これが経済学の世界で一般的に言われていること(のはず)です。

 とは言え、もともと出発点が食っていけないような状況だったら、自分は全然境遇が改善しないのに誰かが勝手にもうかって「パレート改善」とか言われてもしかたないわけで、新古典派の市場擁護論も自己所有権命題も、出発点がどうにか食ってはいける状態を自然状態に前提しているという、本書での稲葉さんの再三の指摘はそのとおりだと思います。だから、この本でも議論されているように、金持ちにも貧乏人にもみんな一律均等に基礎所得を分配して、何とか食っていける状態にベースラインをそろえる仕組みには賛成します。しかしこの仕組みについて、以前から気になっていたのは、人間の国際移動を前提して成り立つかどうかということです。この本を読むと、この点について、立岩さんも悩んでいらっしゃるようです(基礎所得制度についてにかぎった論点ではないが)。いろいろ考えると、立岩さんも気付いていらっしゃるとおり、世界中で同じ基準で導入しないとうまくいかないことになります。基礎所得については、以前、稲葉さんのところのブログで、名目値固定で分配することにすれば優れたマクロ安定性効果を持つという書き込みをしたことがあるのですが、同様に国際的に市場交換を通じた均等化メカニズムが働く仕組みができないものかと考えています。

 近ごろは、小田中直樹さんの『日本の個人主義』(ちくま書房)という本も出たりして、これも大変おもしろかったのですが、個人主義、近代主義の復権のきざしが沸き起こっているように感じて、心強く思っています。僕達の世代は昔さんざんポストモダンにかぶれ、体制批判のつもりで、近代個人主義の悪口を言ってきました。ところがそれが今日に至って「新たな戦前」のようなナショナリズム蔓延状況をもたらしてしまった。ガクゼンとしている人は僕だけではないはずです。グローバリズムや「構造改革」主義がもたらした仁義なき競争と格差の拡大に対して、コミュニタリアンのように共同体の縛りを持ち出す批判をして、保守派のお説教が燃え盛っている世の中に油を注いでもいいのか。しかし、競争や格差の拡大も放置できない。保守派の押し付けようとする拘束を逃れて、あくまで個人から出発する個人主義の立場に立ちながら、なおかつ公正や福祉を基礎付けることは可能か。こうした問題意識を持つ人は増えているはずです。そんな人にとって、この本は、考えるべき問題点を整理する絶好の手引きとなると思います。
 
 
 


 

 

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