用語解説:疎外論
共産党支配下のソ連や中国などでは、人間の解放を掲げる思想の名のもとに、何千万人もの罪もない人々が殺されていった。
かつての日本軍国主義は、祖国と民族の誇りのために、多くの異民族を犠牲にしただけではあきたりず、特攻、バンザイ突撃、集団自決等々、何の戦闘効果もない無駄死にをすべての自国民に強要した。
今もなお、「正義」の名のもとに、「宗教」の名のもとに、「民族の誇り」の名のもとに、他人の命も自分の命も踏みにじる人々が絶えない。
そもそも、「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といったことは、どこにも物理的実体がない。生物的実体もどこにもない。ただ人間が頭の中で作りだした、人間の頭の中にだけあることにすぎない。
それなのに、これらの事どもは、一旦できあがると、それを作りだした生身の人間を勝手に離れて一人立ちしてしまう。そして、どこかにあたかも物理的実体があるかのようにみなされるようになる。さらにはいつの間にか主人面をして、もともとそれを作りだした生身の人間を縛り付けてくる。ついには生身の人間達を血なまぐさくいけにえに捧げるよう命令しだす。
しかしもともと「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といったことは、生身の人間一人一人の生活の都合のために作りだされたものではなかったのか。だとしたら、これらの事どもが生身の人間の都合を離れて勝手に自立して、逆に自らの都合に合わせて生身の個々人を振り回すのは本末転倒ではないか。
このように、「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といった頭中の観念が人間から勝手に離れて一人立ちし、生身の人間を縛り付けて個々人の血の通ったくらしの都合を犠牲にしてしまうことを、フォイエルバッハや青年マルクスの用語で「疎外」と言う。
このページの目次
疎外の例疎外の例1:誰もやりたくない行事「疎外」という言い方について
疎外の例2:「援助交際」
疎外の例3:貧窮の大金持ち
疎外の例4:県境
疎外の例5:オウム事件と連合赤軍事件『資本論』の要点を疎外論で解く1:市場と価格不平等や貧困は結果に過ぎない
『資本論』の要点を疎外論で解く2:搾取と資本
疎外の例1:誰もやりたくない行事
関係者の誰もやりたくない行事があるだろう。例えば直接の知人がほとんどいなくなっている人の法事とか。知っている人も故人を嫌っている。親戚同士も仲が悪くてあまり顔を合わせたくない。あそこ呼びたくないなあ、でも呼ばないとおこるだろうなどとイヤイヤ電話をかける。先方は先方で、行きたくないなあ、電話かけてくるなよ、と思いながら、呼ばれた以上は断ったらおこるだろうとイヤイヤ出かける。主催者も参加者もみんなこんなことはやりたくない。やらなければ、気まずい思いもしなくてすむし、時間も金も損しなくてすむし、全員にとってトクになる。だったらやらなければいいのに、こうしたことはしなければならないことだという「思い込み」に縛られて、みんながみんな損をしてしまう。不合理極まりない。
疎外の例2:「援助交際」
いわゆる「援助交際」などの少女売春。少女本人が本当に気持ちいい思いをするのが目的なら文句は言わない。もっとも「そんならカネとるなよ」ということになるが。また、おカネをもうけてそれで自分の欲望を満たすのが目的ならば、良くはないけどまあわかる。
現実には本当の理由は、「女は容姿で男から評価されてなんぼ」という観念に深くとらわれて、自分が容姿でたくさんの男から評価されていることを確認して安心するためである場合が少なくない。まさに「思い込み」のために自分の生身を傷つけているのである。拒食症なども同じようなものだ。
成人女性でも、ニンフォマニア(淫乱症)の女性のほとんどは実は不感症だという報告もあるくらいで、「私は女として魅力的」ということを確認したいがために自分の身体を犠牲にし、実は男を喜ばせているだけというケースは結構多い。
疎外の例3:貧窮の大金持ち
ときどきこんなケースが新聞に載ったりする。一人暮らしの老人が安アパートに住んでいる。食べる者も質素でいつも粗末な服しか着ていない。家具も少ない。こんな老人が寝込んでしまった。貧乏暮らしに身寄りもないので同情した近所のおばさん達が世話をしていたのだが、結局死んでしまった。しかたがないのでそのおばさん達が遺された部屋の片づけをしていたら、押し入れの奥から通帳が見つかった。開いてみたらびっくりぎょうてん。とんでもない大金持ちだったのだ。身寄りもないのでその遺産はそっくり市のものになってしまった。…というような話。おカネというものは、使って豊かな生活をするためにあるはずのものなのに、いつのまにか「おカネをためなければならない」という「思い込み」が自己目的になってしまって、食べるものも食べず、生身の生活を犠牲にして、その「思い込み」に奉仕することになる。
こんな例はわかりやすいが極端かもしれない。しかし、よく考えるとこの老人を笑えない、よく似た生活をしている人は多い。
大きな家を建てても掃除が大変で住みにくいだけだ。しかも夜中寝に帰るだけで家にいる時間は少ない。子供を大学にやってもどうせ就職は厳しいし、学歴があるからといって将来リストラから免除されるわけでもない。それなのに、立派な家を建てて子供を大学にやって、その資金をためたりローンを返すために、寝る間も惜しんで働いて、食べる者も削り、服もあまり買わず、旅行にもコンサートにも行かない生活に耐えている人々。「立派な家を建てて子供を立派な大学にやってこそ一人前」という観念に縛られて、生身のくらしを犠牲にしているのだ。
ようやくローンを返した後には、定年になって子供も独立し、今や大きすぎて住みにくいガラーンとした家をもてあまして途方に暮れることになる。不合理極まりない。疎外の例4:県境
今私が住んでいる福岡県久留米市は周辺の町と合併を進めているのだが、本当を言えばあまり賛成ではない。どうしても合併というのならば、筑後川をはさんだ隣町の佐賀県鳥栖市と合併する方がいい。実際、現実の経済交流や人の行き来などを考えるとその方が現実的で、別の市になっているから不便なこととか、統一した総合的都市計画を作った方がいいこととかいろいろある。
しかし、両市は別の県なので、合併となると越境合併になり、制度的な制約がいっぱいあって難しい。現実にはほぼ不可能ということになっている。
県境など人間の頭の中だけにある「決まりごと」にすぎない。しかし一旦できると、現実の人々の行き来だとか、物資の行き来だとかにはおかまいなく勝手に一人立ちし、そうした人々の現実のくらしの都合を犠牲にしてしまう。不合理極まりない。疎外の例5:オウム事件と連合赤軍事件
オウム真理教の若者達も、大半はごく普通のまじめな若者だった。苦しいことはいやだし、人を殺したくもない。しかし「教祖への絶対帰依」という「思い込み」に縛られて、人間としての自然な感覚を押さえ付けて、粗食に耐え、苦行に耐え、仲間を殺し、子供を殺し、サリンをばらまいたのだった。
思い起こせばかつての連合赤軍もそうだった。おそらく他人への共感も人一倍あるだろう正義感を持った若者達が、「共産主義化された革命戦士とならなければ」という「思い込み」に縛られて、半年ぐらいの間に14人の同志を次々とリンチにかけて殺害した。全員で一人を延々殴りつけて動けなくし、アジトの外に縛りつけて食事も与えず排泄垂れ流しにして放置し、寒さと飢えで死なせる。今日殴る側だった者も、ちょっとしたことを取り上げられて明日には殺される側になる。犠牲者の兄を、未成年の弟二人が涙を流しながら殴っていたという。おそらくみんながこんな状態はいやだと思っていたはずである。しかし、そのような生身の人間の感覚は、人間から勝手に遊離した観念によって押さえ付けられてしまったのである。
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/rengou.htm
この時代には、連合赤軍までいかなくても、「正しい前衛」の思い込みにとらわれた若者達が、他党派の者を鉄パイプやバールなどで集団で襲撃して殺しあう「内ゲバ」に明け暮れていた。『検証内ゲバ』(社会評論社)という本では、ある党派内に設置されていた保育所が襲撃される凄惨な場面が報告されている。多くの者は誰もこんなことはしたくなかった。少なからぬリーダー達も、こんなことをしていれば運動にとってマイナスになるということまでわかっていた。しかしやめることはできなかったのだ。観念が人間達を離れて自立して、人間達は生身の自分を押し殺して観念の奴隷となって殺しあったのである。
【「疎外」という言い方について】
ここで「疎外」という言い方が、日常用語の「疎外」とちょっと違うので違和感を持った人もいるかもしれない。日常用語では「仲間はずれ」「孤独」といった意味に使うが、ここではそういう意味ではない。
ここで「疎外」と言っているのは、ドイツ語のEntfremdungの訳である。ent-というのは分離を表わし、fremdとは「外国の」「異郷の」「よそよそしい」とかいう言葉で、要するに「縁がない」ことを表わす。外に分離してよそよそしくなるということだから、「疎外」という訳をあてているのである。
これはもともとはヘーゲルというドイツの哲学者の言葉で、彼は、理性の作りだしたものが地上の物質界に実現されたときに、理性の思い通りにならないものになってしまうことを指していた。彼は、理性(観念)の思い通りになることを、本来あるべき自由な状態と考えていたので、そうならない状態への悪い評価の意味を込めて「疎外」と言ったわけである。
それに対して、フォイエルバッハという思想家が、この意味を全くひっくり返して、むしろ理性(観念)こそが本来は生身の人間の都合のために作られたものなのだと言い出した。そして、人間が作り出したはずの理性が人間を裏切って一人立ちして、人間の思い通りにならないものになってしまうことを「疎外」と言った。ヘーゲルは理性を主人公とみなして、物質界をそれに従わせようとしたので「観念論」と呼ばれる。それに対して、フォイエルバッハは、逆に生身の人間の事情をこそ主人公とみなして、理性をそれに従わせようとしたので「唯物論」と言われる。
【マルクスの全体系は疎外論】
このフォイエルバッハの主張に、若き日のマルクスやエンゲルスは大感激した。そう、あの『共産党宣言』などを書いたマルクス、エンゲルスである。そして、そのフォイエルバッハの唯物論的疎外論の手法でもって、宗教、国家、階級などを次々と批判のまな板の上にあげていった。この手法こそ、晩年のマルクスのライフワーク『資本論』の資本主義経済分析にまで貫く、彼らの根本的な発想の図式になったのである。私の『近代の復権』という本(「著書」)は、このことをメインテーマにして書いている。
ところがこれまでのソ連発の共産党公認のマルクス解釈では、疎外論などというものはマルクス達が若かった頃の未熟な考えであって、フォイエルバッハらと決別して以降はそんな立場は脱却したのだとされてきた。ロシアで権力を握ったソ連共産党は、自分達はマルクスの考えに基づいて国づくりをしているのだと自称していた。ところが青年マルクスの労働疎外論が全面展開されている『経済学哲学草稿』が、書かれてから一世紀ほどもたった1930年代に入ってから発見された。まさにその当時のソ連と言えば、独裁者スターリンが罪もない人々を次々と強制収容所に送って殺しまくっていたころだ。いかにその実態を隠しおおそうとも、マルクスがその草稿で批判している「疎外」そのものがソ連にあることは明々白々だった。ソ連共産党当局にとってはなんとしても「疎外論」をマルクスの若い頃の世迷い言にする必要があったわけである。
しかしこの考えはもちろん間違っている。ソ連共産党公認解釈では疎外論脱却後確立したとされている「おやじマルクス」の有名な議論の数々、唯物史観、階級理論、搾取理論、資本理論等々、すべては同じ疎外論の図式ですっきりと説明できるのである。しかも戦後発見された『経済学批判要綱』などの中年マルクスの原稿には、「疎外」という言葉がいたるところあふれかえっていたのだ。(次の項目へ飛ぶ)
『資本論』の要点を疎外論で解く1:市場と価格
例えばマルクスのライフワーク『資本論』での最も有名な議論をいくつか見てみよう。
まずマルクスが市場経済の働きを批判したのは事実だ。だけれどもそれは、市場の自由にまかせたら不況やらインフレやら不均衡が起こって不都合だからということ自体を問題にしているのではない。もしそれ自体が問題なのならば、ソ連でやったみたいに政府がいろいろなものの生産計画を作って命令で動かせばいいという発想が出てきてしまう。違うのだ。
価格というのはモノとモノとの交換比率のことだから、あたかもモノの物理的な性質のように一見感じられるが、実はそんなことはない。人間どうしの約束事である。世間一般ではだいたいこれくらいで取引が行われているよという観念である。だからそれは人間の頭の中にしかない人間の頭の産物である。しかしそれが、人間を離れて、あたかもモノの性質のように個々人のコントロールのきかないものになって、あるときは価格暴落だデフレだ、あるときは価格高騰だインフレだと勝手に暴れ回り、生身の人間はそれに振り回されて行動する。それであるときは首きりだ倒産だと、別のときには物価高だと、生身の人間のくらしが犠牲になる。つまり、観念(今の場合は価格)が個々人を離れて個々人の自由のきかないものに自立して、生身の個々人がそれに縛られて振る舞う。つまりこれは疎外だというわけだ。※ だから市場経済をなくして国有化して政府の計画で経済を運営しても、この問題はちっとも解決されない。個々人の自由のきかない市場の命令が、個々人の自由のきかない官僚の命令に変わるだけだ。生身の人民大衆が、自分の自由にならない勝手に外で決まる観念に振り回されて、個々の生身のくらしの都合が犠牲になる点では何も変わらない。
『資本論』の要点を疎外論で解く2:搾取と資本
また『資本論』では、メインテーマである「資本」ということ自体、疎外の図式そのもので分析されている。資本とは、「自己拡大するおカネ」と言ってもいいし、そのおカネで買う「自己拡大する機械や工場など」と言ってもいいが、どちらにしても実は観念である。
おカネというのは一見物理的なモノのように思えるが、黄金にしろ紙幣にしろ口座にしろ、それでモノが買える物理的性質があるわけではない。それでモノが買えるという「決まりごと」「思い込み」である。誰もそれを納得して選んだわけではなくて、勝手に自分の外で決まっていて各自文句の言えない観念である。
機械や工場も、それ自体は物であるが、それだけならば人々を豊かにする性質だけを持っている。資本主義経済で問題になるのはその側面ではなくて、それが企業を経営するごく一部の人=資本家の決めた命令や規則だけによって動かされるという点にある。「これは資本家の命令で動かすものだ」という「思い込み」「決まりごと」。資本家の決めた命令や規則自体。そういう観念をバックにした機械や工場が「資本」になるのである。この観念は、そこで実際に働く一人一人の生身の労働者にとっては、勝手に自分の外で決まっていて、有無を言わせず押し付けられる観念である。
資本主義経済では、個々の生身の労働者は、自分の自由にならないそうした外的な資本家の観念にしたがっていやいや労働させられる。疎外労働である。そしてその産物の一部は労働者が作り出したにもかかわらず、労働者自身の自由に処分できず、資本家が勝手に決める観念に従って処分されるものとなる。これが搾取である。「搾取」と言うと、何か他人を食い物にしたぜいたくざんまいの生活を思い浮かべるが、それが問題の本質なのではない。疎外が問題なのである。資本家がみな清貧でかすみを喰って、利潤をすべて機械や工場の拡大に回したとしても、それが労働者達の自由に運営できるものでなく、資本家の勝手な判断で運営されるものである以上は、立派に「搾取」なのである。
いや、ぜいたくざんまいのために搾取していた昔の王侯貴族は、許せないけどまだかわいい。資本主義経済では激しい市場競争のために、個々の資本家は自己の生身の欲求をがまんしてでも、利潤を事業の拡大のためにまわすことを強制される。誰もが本当は利潤を浪費したくても、「事業を拡大せよ」という「思い込み」が競争の中で一人歩きして、みんながそれに従わざるを得ない。資本家だって疎外を被るのだ。
かくして機械や工場が人間を離れて勝手に膨らんでいく。あるいはそれに対応するおカネが、人間を離れて勝手に膨らんでいく。すべての生身の人間はこの自己膨張のための奴隷となる。本来これらのものは人間の生活を豊かにするためのものだったはずなのに、逆にこれらのものの自己膨張の方が目的となり、生身の人間は手段になってしまう。消費が満たされたり、設備投資を止めたとたん、経済は失速して大不況になり、多くの人々が路頭に迷って生活できなくなる。それがいやなら経済成長し続けなければならない。成長のための成長。生身の人間のコントロールがきかなくなったこの「思い込み」が、その勝手な都合で生身の人間を振り回しながら暴走し続けるのである。これが「資本」である。まさに疎外である。※ それだから機械や工場を国有化したからといって、この疎外がなくなるわけではない。機械や工場を国有化したスターリン時代のソ連では、人民大衆を恐怖政治でおどかして、喰うや喰わずの耐乏生活で長時間労働でこき使って、急速な工業化を成し遂げた。こうして人民大衆が一切自由にコントロールできない生産手段が、まさに人民大衆の生き血を吸って自己膨張していったのである。これを資本と呼ばずに何と言うか。
【疎外の起こる原因】
とはいえ、マルクスやエンゲルスがフォイエルバッハの影響から脱却したのは事実である。では疎外論を捨てたのではないとすると、どこにフォイエルバッハからの飛躍があるのか。
それは、フォイエルバッハが疎外を単に個人的な思い込みのようにみなし、みんながこの思い込みを捨てれば疎外から解放されると考えていたのに対して、マルクス達は疎外がどうしてもおこってしまう原因を社会の仕組みの中に見いだしたことにある。原因が社会の中にあるのならば、社会の仕組みを変えなければ疎外をなくすことはできない。
なぜ疎外が起こるのか。観念を一人立ちさせて、それによって目の前の欲求を抑えてがんばることは、それ自体悪いことではない。例えば、禁煙という「考え方」をスローガンに立てて、タバコを吸いたい欲求をがまんすることはいいことである。これはまだ疎外にまではなっていない。なぜなら禁煙は、健康でいたいという、生身の人間の長い目で見た欲求を満足させるために役に立つ。それをよく理解してやっているからである。そうであるならば観念の自立といっても人間が認める限りの事で、人間の役に立たないならばいつでも撤回できる。タバコは別に健康に悪くないということが仮に証明されたならば、いつでも禁煙をやめることができる。一人立ちさせているのが個人的な思い込みである限り、それを解消することは比較的容易である。
一人立ちさせた観念が人間の都合で解消できなくなるのは、複数の人間にかかわる場合である。人間は独りでは生きていけないから、互いに関係しあわないわけにはいかない。すると、「約束事」「決まりごと」「目標」「理念」「法律」などの観念をとりあえず外に立てて、それにしたがって行動することがどうしても必要になってくる。
今仮にあなたが私のゼミの学生だとして、私と論文指導のアポをとったとする。つまり会う日時を「約束事」として取り決めて外に立て、それに基づいて行動することにするわけだ。ところが約束の日にあなたがあこがれる異性からデートに誘われたとしよう。私も子供が熱を出してしまったとする。こんな日に論文指導することはあなたにとっても私にとっても不都合だ。やめた方が二人とも助かる。それにもかかわらず約束通り実施することは、「約束事」という観念が人間の事情を離れて一人歩きし、個々人を不都合に陥れることになる。疎外である。ではどうするか。簡単である。電話で連絡をとりあって事情を話せば良い。そうすれば、二人とも今日は都合が悪いから別の日にしようということになって、疎外は起こらない。しかしここで連絡がとりあえなければ約束の日に出ていくしかない。疎外が起こる。
例えば社長が暴君で取締役みんなが困り果てているとき、みんなが互いに「他者は社長に忠実だ」と予想しているかぎり、取締役会で社長解任を提案しても、賛同者が自分だけならば自分がやられるので、誰も解任を言い出さない。「この人を社長として従うべきだ」という観念が自立してしまい、各自はいやなのにその観念に従わざるを得ない。まさに疎外である。しかし取締役どうしで十分連絡が取り合えて、ああやはりみんな社長解任を望んでいるのかということがわかったならば、社長解任を提案可決できてこの疎外は解消される。
つまり、影響しあっている人達の間で互いに連絡がとりあえて合意が作れるならば、疎外は起こらないのである。影響しあっている人達が互いにバラバラになっていて、その都度合意を作ることができなければ、各自の納得しているわけでもない外的な「考え方」「思い込み」「決まりごと」に従って行動せざるを得なくなる。疎外である。人間一人では生きていけないので、いやでも仕方なくそうなる。
※ このようなマルクスの議論は、実は今日ゲーム理論を用いて分析が進められている現代の数理経済学の最先端の議論と一致している。私が本当にやりたい研究はそれなのだが、全然時間がなくて着手できないでいる。
【資本主義の進歩的役割】
マルクスやエンゲルスはこのように疎外の原因を見いだした結果、資本主義の発展こそが疎外をなくす条件を作るのだと考えるようになった。この認識に達して間もなく書かれた『共産党宣言』などは、読みようによっては資本主義礼讃の書である。
というのはなぜか。資本主義以前の前近代社会では、人々は狭い村の中で一生過ごし、村ごとに全然違う価値観やしきたりのもとで暮らしていた。職人もお互いわからない奥義の世界に埋没していた。身分ごとにも、それぞれ全く違う価値観やしきたりで暮らしていた。このような中では、世の中全体にかかわることをまわしていくためには、話し合って合意をつけて納得づくでやっていくことなどとてもできない。結局誰か上に支配者が現われて、その命令で有無を言わせず仕切っていくしかない。つまり人々の外に、個々人の自由にならない支配者の意思という形で観念が一人立ちし、個々人の生身の事情を無視してそれが押し付けられることになる。ずばり疎外である。どうしてもこれを避けることができないのだ。
ところが近代資本主義社会では疎外の質が変わる。資本主義も疎外社会なのだが、そこで人々のコントロールを離れて自立する観念というのは、例えば市場経済の法則であり、法である。つまり、いかなる特定の人間とも結びついていない。前近代の疎外観念は特定の権力者の意思と結びついているから、権力者のわがまま勝手でものすごくヒドいことがなされるかもしれないけど、他面で人間臭い融通も効いた。しかし近代資本主義社会の疎外観念たる市場法則や法は、どんな権力者の人為も効かないから、人間という人間から一切離れた疎外の完成である。権力者のわがままもなく、エコヒイキもないかわり、杓子定規で融通も効かない。
しかしこのおかげで誰もが同じ影響を受けることになる。難しい言葉で言うと「普遍化」ということだ。さっきも述べたように、資本主義は成長のための成長ということで、際限なく世界に広がっていく。その結果世界中が同じようなシステムのもと、同じような影響を受け、同じような商品を消費するようになる。
その中でもとりわけて重要なのが、絶えまない機械化が生み出した単純労働者である。職人的技能は次々と無用になって、世界中同じ均質なぎりぎりの生活をしている膨大な単純労働者大衆が出現した。彼らは資本家の都合で簡単にクビになって、様々な産業を渡り歩いているので、どこの部門でどんな労働をしなければならないかみんなわかっている。消費生活も均質だから人一人生きていくのに何が必要かもみんなわかっている。前近代の農民や職人と違って、大都会の長家で寄せ集まって暮らし、大工場でみんなで共同作業している。
だからこそ、この単純労働者大衆によってはじめて、疎外なしで世の中を運営していくことが可能になったわけだ。互いに他人の暮らしも労働もよくわかりあっているから、工場全体の運営も、経済全体の運営も、話し合って合意をつけてやっていくことができるのだ。この、機械や工場を労働者みんなの合意によってコントロールするということが、「生産手段の共有」ということにほかならない。これがマルクスの共産主義である。ソ連や北朝鮮のような国有中央指令経済とは縁もゆかりもない。一党独裁などとは正反対である。
資本主義の発展の結果、労働者達の手によって世の中は必ず共産社会になるというマルクスのストーリーの意味は、こういうことだったのだ。これまでのソ連共産党公認の勘違い解釈によれば、資本主義の発展の結果労働者が職人的技能も文化的生活も奪われて均質な単純労働者になるという描写を、ただ単に「資本主義はこんなにヒドい」という告発としてだけ受け取っていた。そして、労働者の手によって必ず共産社会になるということを、あんまりヒドい目にあうので耐えられなくなって立ち上がるという意味にだけとっていた。そうではないのだ。資本主義によって均質な単純労働者になるという描写は、疎外によらず、話し合って合意をつけて世の中をまわす能力が身につくという、次の社会に向けた積極的条件の指摘でもあったのだ。
【今日疎外をなくすために】
疎外をなくすためには、人々がそれぞれの狭い特殊性にいこじに凝り固まっていてはならない。別に自己犠牲的な利他主義者になる必要などないが、みんながお互い理解しあって協力しあえる性格を持たなければならない。これが人格の普遍化ということである。19世紀資本主義の発展の中にマルクスが見いだしたのは、技能や職業や地域や民族のいろいろな特殊性を剥ぎ取られて、みんなスッカンピンの均質な存在になることによる普遍化であった。私はこれを「喪失による普遍化」と呼んでいる。
1980年代以降引き続いている現代資本主義の発展傾向もまた、この「喪失による普遍化」をもたらしている。ME化、IT化が旧来の一切の熟練を解体して、いつでも簡単にクビがきれる単純労働者に取り替えている。民営化、規制緩和で市場に人為が効かなくなり、そんな市場がグローバル化して、世界をアメリカと同じ均質な色に染め上げようとしている。この結果、我々が何もしなければ、19世紀にマルクスが見たのと同様の単純労働者大衆が世界中に生み出され、マルクス同様、彼らの手によって疎外のない社会を作ることが将来展望できるだろう。これもたしかにひとつの進歩ではある。
しかし今日の発達した情報通信手段のもとでは、同じく疎外をなくすにしても、我々は別の道も展望できるだろう。人々がお互い理解しあって協力しあえるように普遍化するには、何も個性を失って均質になるしかないわけではない。発達した情報通信手段でつながりあうことによって、お互いに他者の個性を理解しあって影響を受けていくことにより、様々な他者の多様性をわがものにしていくことで多面化する道もある。私はこれを「獲得による普遍化」と呼んでいる。
具体的に言えば、自分の身の回りで、そのときそのときの情報通信手段のレベルにてらして手の届く範囲で、疎外によらない人間関係を作り上げていくことである。すなわち、資本家の命令で働かされる疎外のないよう、労働者達が自分達で民主的に合意しあって経営する労働者協同組合の事業に乗り出す。市場変動に振り回される疎外のないよう、消費者のニーズを聞いて必要なものを必要なだけ生産するネットワーク事業に乗り出す。このように、NPOや協同組合等々のネットワークをつなげて、草の根から共同決定的な参加型事業経済を広げていくという道である。いわゆる「アソシエーション的対案」である。
もちろん、現実のNPOや協同組合では、最初は美しい理念を掲げて設立されても、いつの間にか一部の経営者の独裁に陥り、美しい理念からはその本来の内実が失われて、個々のメンバーに低賃金の長時間重労働を押し付けるための恐るべき手段となってしまうという疎外がすぐ起こる。あるいは逆に、美しい理念など忘れ去られて、露骨な金銭追求の中で市場変動に振り回されるという疎外もよく起こる。ありとあらゆる方向に疎外の落とし穴が待ち受けている。「疎外をなくそう」という理念自体、掲げたとたん一人歩きして、やがて生身の人間を押さえ付けるようになる疎外の危険を免れることはできない。
それでも、目の前で自分や他人が現実の疎外によって犠牲になっていたならば、放置しておくわけにはいかない。しかもただの動物的なわがままな反発に終らないためには、こういうやり方の方がもっと当事者の現実のくらしを改善するぞという、新しい「考え方」「工夫」「理念」「決まりごと」を打ち出さなければならない。それはもしかしたら、またぞろ新たな疎外をもたらすかもしれない。しかし、自分が疎外の加担者になるリスクを避けて逃げてはいけない。あえてそのリスクを負って、新しいやり方を事業として試みなければならない。その結果新たな疎外を生み出したならば、傷が深くならないうちに、すぐさまいさぎよく反省し、もっと別のやり方を考えればいいのだ。そこで、自分はいいことをやっているのだからこのくらいの犠牲は目をつぶれと、開き直ってはいけないだけだ。しばらくは犠牲の深刻さの見極めに時間がかかっても、開き直らず公然とやましさを感じ続けることが重要なのである。
「逃げず、しかし開き直らず」である。そしてあちこちの多くの人達の手で、数多くの失敗と、それ以上に数多くの新しい試みを続けていくうちに、だんだんと疎外によらない社会関係が広がっていけばいいのである。
サイト内リンク
私の主張8「非営利・協同ネットワークと個人のアイデンティティー」
研究内容2「マルクスの近代システム認識から見た現代資本主義と非営利・協同ネットワーク」
推薦書
拙著『近代の復権──マルクスの近代観から見た現代資本主義とアソシエーション』(晃洋書房) 「著書」
田上孝一『初期マルクスの疎外論──疎外論超克説批判』(時潮社)
副田満輝『マルクス疎外論研究』(文真社)
勝手にリンク
(自薦、他薦をお待ちしています)