松尾匡のページ

09年12月31日 歳末書評


 12月22日にトップページに書きましたが、12月20日に拙著『商人道ノスヽメ』の講演CDの収録に上京しまして、その機会に前日の20日、かねてから同書をごひいきいただいている江戸川区議の上田令子さんたちと会食させていただきました。上田さんにはその模様を、ブログでとりあげていただき、その中で、『商人道ノスヽメ』と『痛快明快経済学史』をご紹介いただきました。ありがとうございます。
http://blog.livedoor.jp/edomam/archives/51772172.html
 上田さんはリバタリアン道を貫き通して、区議会多数派の自民党・公明党から目の敵にされちゃったようで、いろいろいやがらせが絶えないのですが、今度は予算・決算委員会に出席させてもらえないらしい。
 詳しくはこちらを↓。
お姐を予算・決算委員会に出そう!
 で、まあ、リバタリアン(自由至上主義)らしくフリードマンがお好きでケインジアンが嫌いでいらしたのですが、現代的ケインズ理論が、価格・賃金硬直を前提せず、むしろ価格・賃金が伸縮的に下がることから需要不足と失業を説明していることを申し上げたら、よく納得していただけたようで恐悦至極。ただでさえ左右中間派から叩かれていらっしゃるのに、左右中間派ノンポリすべてから輪をかけて迫害を受ける、イバラのリフレ派道に引き込んでしまったようで…あ〜あ、学者は無責任だもんねー。しーらないと。

 最近ほかにも『商人道』本をお取り上げいただいたブログが出ていて、本当にありがたく思います。
「ママデューク」さん:http://mamaduke.at.webry.info/200912/article_22.html
 山形さんの書評を読んだ上で、拙著を二回も読まれて高いご評価を下さっていることを何よりうれしく思います。ありがとうございます。

 今、正月休みに入っていますが、春までに書かなければならない本が二冊あります。
 一つは、以前もエッセーに書いた、筑摩書房のウェブ雑誌連載の書籍化。1月末までにA4で50枚ぐらい追加ってことになっているのですが、そろそろ着手しないと。ひょっとして、よく考えたらグラフ類のデータの更新とかもしなければならないのかも。それは大変!

 もう一つは、「図解雑学」シリーズってわかりますか。そう、ナツメ社の。こんなの
 ここから、「マルクス経済学」のを出せと言われたわけ。
 二時間位で読み切れるもので、これを読んだら『「はだかの王様」の経済学』が読めるようになるレベルで…とのこと。書き始めると相当やり取りが繰り返されて、鍛えられるようです。
 世の中のマルクス経済学というものがどういうものかの解説が目的ではない、最初から自分の考えで書けということなので、まあその点では楽かも。
 これが年度内で書き上げろということで、やっとプロットだけこないだ組み立てたところ。

 本当はそろそろ難しい専門書を一冊出したいんですけどね。その前に目下の研究プログラムにひとまずけりをつけてどこかの雑誌に載せないと。
 これに関連する命題の予想について、ある日、ボクが証明できるはずって言ったら、吉原直毅さんが証明できないって言って、激しくメールのやりとりがつづいていたら、一晩寝ているうちに、吉原さんがやっぱり証明できたって。「シトフスキー・フロンティアを使う」って、そんなの二次元図にかけてもn部門でどうすればいいかわかんないよって言ってるうちに、ほどなく例によってトポロジーの難しい証明が送られてきました。すげー。
 自分の予想通りになってありがたいけど、先超されてちょっとやる気なくなった感じもあるし、もう差し迫った執筆にかかるから、次の展開まで考えて論文にするのはいつになることか。でもまずそれが片付かないと本にはまとめられないし。

 そういえばこないだ思いついたのは、二、三年後に『痛快明快経済学史』の続編出したらどうかって話。
 いや内容は全然考えてないんだけど。ただ設定だけ。
 『痛快明快経済学史』の主人公だった江古野ミクは大学院生になっていて、何も知らない学部二年生の草食系男子がゼミに入ってきて、根上のぞみ先生とミク先輩にイジリ倒されるという展開。

 根上先生がミクちゃんに新ゼミ生の顔写真見せながら、
「ほら、このコよ、このコ。ジャブジャブに量的緩和しちゃうわよね。」
「本人の前でそんなこと言ったらセクハラですよ。」

って、おもしろくなかった? あ、そう。


 というわけで、そろそろ執筆モードに入るので、サイトをいじる余裕がなくなる前に、前々から懸案だった、最近読んだ本の紹介を。

 最近、一般向きにわかりやすく書いたつもりの本でも、やっぱり「難しい」とか「読みにくい」とかといった感想を受けて、まだまだ修行が足りないと反省を繰り返しているところなので、何を読んでも、まず、わかりやすさや読みやすさの点で、難点や工夫に目がいくようになっています。
 そういう意味では、経済理論の入門書は一番参考になります。
 特に、これから執筆する景気の話の本とマルクス経済学の本にとっては、それぞれマクロ経済学とマルクス経済学の入門書が検討材料になるわけですが、最近はマル経の入門書がブームのようであふれかえってますので、それについては後日まとめてご紹介したいと思います。
 それで、ここではまずマクロ経済学の入門書を少々とりあげたいのですが、要は、現代的なケインズ理論をいかにわかりやすく説くか、ということ。

 上の上田さんの話のところでも書きましたように、現代的なケインズ理論は、価格や賃金が伸縮的だということを出発点にして話を組み立てています。
 これって実は十年位前には常識的でなかったんですね。いまでもそうかも。
 従来の常識では、ケインジアンってのは、市場メカニズムは不完全で価格も賃金も動きにくい、だから供給過剰になっても自動解消できないから、政府が公共事業とかやって総需要を増やしてやって均衡させるって考え方とされてきました。それに対して、新しい古典派は、規制緩和とかして価格や賃金がスムーズに動くようにすれば、市場メカニズムはうまく働いて自動調和するんだって批判したわけです。
 特に1970年代のスタグフレーション(不況下のインフレ)をケインジアンはうまく解けなかった。それを新しい古典派が批判して、ケインジアンを打ち倒し、規制緩和、民営化といった「小さな政府」路線が世界の主流になった。こういうストーリーになっています。
 今でも普通のマクロ経済学の教科書は、価格や賃金が硬直的だという前提でケインズ理論をまず説明し、うしろの方で、その前提をはずして、いろいろな関数も企業や家計の行動から精密に導いた理論として、新しい古典派の説明をつけています。一般にも、守旧派ケインジアンvs精緻な現代的数理科学の新しい古典派というイメージがあるでしょう。

 ところがこういう対立図式は、学問の世界では90年代ぐらいにはもう過去のものになっています。現代的なケインズ理論は、市場の需給に合わせて価格や賃金がびゅんびゅん伸縮的に動くことを前提して、しかも、新しい古典派同様、いろいろな関数を、企業や家計の先を見据えた行動から厳密に導きだしながら、なおかつ、総需要不足で深刻な不況が発生して失業者が生じる事態を説明できるようになっているのです。
 詳しくは本サイトの「用語解説:ケインズの経済理論」を読んで下さい。
 または『痛快明快経済学史』でもこのへん解説しましたので、まだの方は是非お買上げを、ヘヘッ。なんか、価格や賃金が硬直的ってケインズ解釈があんまり憎らしくって、こういう解釈が定着していった犯人探しみたいなことのために、入門書には不釣り合いなエネルギーをかけてしまいましたけど。
 まあ、デフレの現実見れば誰でもわかりますよね。価格や賃金が伸縮的なら不況や失業がなくなるかって言うと全然なくならない、伸縮的に下がるから、そのせいでかえってひどくなってしまうって。

 でも十年位前は、学問的にはこういう立場が十分市民権を得ていたはずなのですが、入門教科書はまだまだ旧来の説明ばかりでした。現代的なケインズ理論の立場を、学部初級生向きに微分積分などの高度な数式無しで説明したマクロ教科書は、当時はたぶん、ボクが1999年に中央経済社から出した、『標準マクロ経済学──ミクロ的基礎・伸縮価格・市場均衡論で学ぶ』だけ(誤植だらけでしたけど)。
 学界ではこれが標準なんだから、教科書もこれからはこれが「標準」だって、気負って出したんですけど、一人荒野に叫んでいるような歳月が続きましたね。

 それが最近ようやくこういう立場の初級入門教科書が出てくるようになって、とてもうれしく思っています。
 2008年に出た飯田泰之さんと中里透さんの『コンパクト マクロ経済学』(新世社, amazon bk1 セブンアンドワイ 本やタウン)も、本当にコンパクトでわかりやすくてとてもよかったけど、まだ、旧説明→新説明の二分法ですね。最初から、ミクロ的基礎・伸縮価格で押していくやつが出ないかなあ、と思っていたら、今年09年になって出ました。

 大瀧雅之さんの『基礎から学ぶ 経済学・入門』(有斐閣, amazon bk1 本やタウン)です。恐れ多くも大瀧先生御自ら初級入門書をご執筆です。
 読んだときにまず感じる印象は……熱い!
 いたるところ学部初級生に向かって人生説いています。ヤ×ガ×さあ〜ん、価値観押し付けてますよ〜! 怒ってくださーい(笑)。
 いやまあ、それがとてもいいんですよ。もちろん賛同するものばかりじゃありませんけど、東西の文学作品や落語の名作が動員されて、いい味出してます(『きかんしゃやえもん』まで出てくるとは!)。お勧めの本のコーナーも、文学作品あり『種の起源』ありで、経済学の本ばかりでないし。でも、これがどこまで今の学生に通じるか知りませんけど、まあ、たぶん東大では通じるのでしょう。

 で、カバーにも「ミクロ経済学とケインズ経済学とを一体のものとして学ぶテキスト」と書いてある通り、ミクロ経済学の基本的なものの考え方から説きはじめて、それを展開することで、総需要不足から失業が生じるケインズ的均衡を説明しています。タネは、不完全競争と貨幣の存在。拙著『「はだかの王様」の経済学』でも述べた「みんなが価値があると思うから価値がある」という貨幣というものの性質によって、現在物価は将来物価だけによって決まり、時間を通じた物価水準そのものはいかなる値も取り得る不定値になります。このために貨幣は中立ではなくなり、貨幣が不足すれば総需要不足で失業が生じ、貨幣を増やせばそれを解消できるということが言えることになります。
 このモデルは、貨幣の量と物価が関係ないので、一見リフレ論とは違うように見えます。大瀧先生もこの本の中で、今の日本のデフレは貨幣の量とは関係ないとおっしゃっています。しかし貨幣供給が少なすぎるから不況になる、拡張的金融政策を取れば景気はよくなるというわけですから、ある意味ではリフレ派以上にリフレ派的な政策主張になっているとも言えます。
 それに、物価が不定ということは、将来の物価予想がいろいろに異なる複数の均衡が存在し得るということです。ということは、モデルの作り方の細部によっては、将来の物価が上がることで、現在の総需要が拡大する結論を得ることも可能だし、貨幣供給と物価に必然的つながりがなくとも、貨幣供給を増やせば物価が上がると人々が信じさえすれば、リフレ論的な均衡の移動を導きだすことも可能でしょう(一種のサンスポット均衡だから)

 そして、何よりこの本が評価できるのが、ミクロ的基礎付けというのが、ただ単に通り一遍の企業や家計の最適決定の話から始めるにとどまっていないところ。個人の上から超越的な価値を天下りさせない「功利主義」の立場に立つことを自覚し、しかも、それが「もっとも深い根の部分で人間肯定の思想」につながること、すべての個人を尊重する社会正義の基準となることを明示していることです。
 そしてまさにこの立場から、市場の放任がもたらしかねない諸問題を政策が解決する責任を基礎付け、新しい古典派経済学が結局強者の都合を正当化してきたことへの論難を本書の随所に書き付けるに至っています。本当にその通りと共感します。

 なお、数式展開はできるだけ簡単にするよう努力していることが、ひしひしと伝わってきます。記号を使った数式は最初三分の一過ぎたあたりから初めて現れ、微分も最後三分の一ぐらいになって仕方なく最小限度で登場します。しかも、そのときには微分というものについての解説を懇切丁寧にしています。
 もっとも、微分を使わないからその代わりに「平方完成法」というのはちょっと…。それに、U(X,Y)といった関数型の一般表現が何の解説もなく出てきたり、「ベクトル」「一次式」といった数学用語が解説なく使われたりもしてるし、私立文系の学生には、まだまだちょっと苦しいかな。東大生なら大丈夫なんだろうけど。


 さて、新古典派的手法からケインズ理論を定式化したパイオニアが書いた学部生向け入門書の改訂版が今年09年に出ました。
小野善康『金融』第2版(岩波書店, amazon bk1 セブンアンドワイ 本やタウン

 一般の金融論の教科書のイメージとは違って、なかみは小野先生のマクロ経済学のわかりやすい解説書です。と言っても、一応入門レベルのミクロ経済学は勉強していることが前提かな。
 動学的最適化問題の定式化とか計算とかは出てこないんですけど、その結論である定常均衡での収益率均等化の式を、経済学的意味を説明した上で出発点にして使います。小野先生の議論に慣れた身からすれば、またこれかって感じでわかりやすいけど、やっぱり私立文系の学部生には難しいかも。微分は原則でてこないし、出てきた時には、例えば二変数の積の対数微分が各変数の対数微分の和になることなんか、長方形の図とか使って懇切丁寧に説明したりしているのですが。

 全体の主張は、もちろん、人々の飽くなき貨幣愛=流動性選好が不況をもたらすという、全くもっともなご持論です。さらに、様々な政策効果やバブルなどを、同じ枠組みで議論しています。基本的な図の見方を理解すれば、すべてがそれを使って体系的に簡潔に理解できるのでとてもおもしろいです。

 ただ、拙著『痛快明快』本でも書きましたけど、小野先生のモデルは、人々が貨幣に飽くなき効用を感じることを出発点にして作られていて、なぜ人々がそんな効用を持つのかから導いていないので、流動性のわな均衡に落ちたら、いくら貨幣を増やしても不況を抜け出す効果はないことになっています。だからこの本でもインフレ目標政策に対しては冷ややかな記述があるのですが、それはモデルの特殊な定式化から出てくる結論であって、流動性選好が不況をもたらすという理論の本質に起因するものではないと思います。

 もっとも、第7章で長期不況均衡に陥ったときの貨幣政策を検討したところで、不完全雇用均衡の他に、完全雇用インフレ均衡が発生するとする議論がされています。小野先生はここから、インフレ目標政策が成り立つためには、完全雇用になってもなおかつインフレを持続させる約束が必要との結論を導き出しておられます。全くそのとおりですが、率直に言って「何か困ったことでも」と思います。
 小野モデルでは、貨幣を得るありがたみに、いくらおカネ持ちになってもそれ以上減らない下限があることになっているため、消費と比べた貨幣のうまみが、完全雇用を持続する消費をもたらす利子率よりも高いまま下がらなくなるところに不完全雇用均衡発生の原因があります。だから両者のギャップを埋めるだけのインフレが予想されればよく、それは同じ率での貨幣供給の増加を維持すればつじつまが合います。
 ボクがここからイメージするのは、例えば、完全雇用に至っても、えてして起こり得べき7%とか10%とかのインフレにならないよう、完全雇用を実現するための2%のインフレを維持しつづけますという、普通の極めて真っ当なインフレ目標政策なのですけどなにか。


 さて、話は変わるのですが、最近「行動経済学」って流行ってますよね。心理学的な実験なんかを通じて、人間必ずしも経済学が想定していたように合理的に行動しない、しかも合理的行動からのズレ方には一定の傾向が見られるってことがわかってきたという話。
 『痛快明快』本で、これに触れて「主流派経済学を補完するもの」と位置づけたら、小飼弾さんからいただいた書評で「端から見ていると現実逃避にしか見えない」と評されましたけど。まあ、これまでの経済学を本質的にくつがえす新しい経済学がここから始まるというような期待をお持ちの人は多いようですね。でもはたしてそうなのでしょうか。
 たしかに、経済学者にかぎって、デフレの最中に家を建ててデフレの間中ローン払ったり、退職金で外債の投資信託買うとき「安全のため」とか勧められて、安全のためならその分定期預金にした方がいいに決まっているのに、アイスランドやらハンガリーやらがいろいろ混ざったやつを別途買ってしまってリーマン破綻後大損したり、よりによって悪名高いアールのつく私立大学に移籍したり、結婚も…うわなにをすq亜wせdrftgyふじこlp

 とりあえず、どんなことがやられているのか、一番わかりやすい啓蒙書はこれかな。
ダン・アリエリー『予想どおりに不合理』(熊谷淳子訳, 早川書房, amazon bk1 本やタウン)
 さっぱり売れなかった家庭用パン焼き機が、1.5倍の値段の大型モデルを別に売り出したとたん売れるようになった。人は4.5グラムの粒チョコと交換に60グラムのチョコバーを入手するよりは、タダで30グラムのチョコバーをもらう方を選ぶ。困っている退職者の相談事業に、廉価の報酬で応じようという弁護士はいなかったのに、無報酬で依頼したら多くの弁護士が応じた。MITの学生寮の共有冷蔵庫に、6本パックの缶コーラを入れておくと72時間以内になくなるのに、6枚の1ドル札を入れておいたら72時間たってもそのままだった…。
 文章もおもしろいんですけど、ヘンな実験が山盛り出てきてエンターテインメントとしても十分楽しめます。

 行動経済学が問題に取り上げたトピックスの中でも、特に有名な「双曲割引」については、
ジョージ・エインズリー『誘惑される意志』(山形浩生訳, NTT出版, amazon bk1 セブンアンドワイ 本やタウン
 図書館から借りて読み切ったのですけど、あんまり面白かったので、アマゾンの中古で買ってしまいました(笑)。念のため言っておくとまだ絶版ではありませんので、どうしても新品が欲しい人はご自由に。
 伝統的な経済学では、将来のことは一定の割引率を使って割り引くことになっています。そうすると、同じ金額のものを、今年もらえることと来年もらえることとのありがたみの比は、10年後にもらえることと11年後にもらえることとのありがたみの比と同じになりますから、想定外のことが何も起こってないかぎり、今年立てた10年後の計画がいざ本当に10年後になったときにくつがえることはありません。
 しかし、現実の人間は、10年後もらえるありがたみと11年後もらえるありがたみにほとんど違いを感じないのに、来年もらえるありがたみは今年もらえるありがたみと比べて大きく割り引くことがわかっています。この割引は、時間に反比例する双曲線状になるそうで、「双曲割引」と呼ばれています。この場合、現在立てた将来計画が、いざ実際にその将来時点が来たらくつがえってしまうことが起こり得ます。将来計画したダイエットや禁煙がいざその時点がきたら撤回されるなど。
 これは、人間だけでなくて、ハトにも見られるそうで、かなり根深い傾向のようです。もしそうだとすると、時間を通じた最適計画を各自が合理的に立てるとする経済学の想定がゆらぐことになります。

 さらにこの本では、人は(ハトもらしい!)この問題に対して、意志の力を使って、目の前の誘惑に引きずられないようルールを立てるわけですが、そうするとやがてルールは硬直化して人間にかえって不幸をもたらしてしまうと論じています。あれっ、これって拙著『「はだかの王様」の経済学』で「疎外」と呼んだことそのものですね。拙著では、複数の人の間のゲーム論的状況から、このようなことが起こってしまうことを説明しましたけど、エインズリーさんは、「双曲割引」があると、同じ一人の人が違う時点では別の人格のようになるとみなし、同一個人の別人格の間のゲーム論的状況から、こうしたルールの一人立ちを説明しています(説得力あるかは保留)。拙著で原則として複数人間でのメカニズムとして説明したことが、一人の人間の中でもあてはまることが示せたわけですね。こんな本を訳した人にとっては、さぞかし拙著の理屈は納得できたことでしょう(笑)。

 ところで、このような行動経済学をどう応用するかということですが、
R. セイラー、C. サンスティーン『実践 行動経済学』(遠藤真美訳,日経BP社, amazon bk1 セブンアンドワイ 本やタウン
の見本版を日経BP社からいただいています。ありがとうございました。
 人間は経済学が想定するような合理的な存在じゃないのだから、人々が適切な選択ができるようなちょっとした工夫をすべきだって話で、こうした立場を「リバタリアン・パターナリズム」と自称しているのですが…うーむ。なんか昔△○派の「主体性唯物論」って聞いたときの印象みたい。
 実際には、自分も教育の場面でこんな工夫をいつも失敗ばかりしながら模索してそうだし、自分も政策当局になったらこの本の言う通りにしそうだし、当局がこんなことやってても文句を言ったりはしないけど。……うーむ、でもねえ、いくら「リバタリアン」って形容詞つけても、パターナリズムはパターナリズムでしょ。
 パターナリズムというのは、「温情主義」とか「父権主義」とか訳しますけど、不完全な判断しかできない下々に成り代わって、エラいエリートが下々の幸福のための判断をしてあげますよという考え方で、元来、ボクたち経済学者や自由主義者の目の敵。現実への妥協はいくらでもするけど、原則論として肯定するのはどうかなという気持ちはぬぐえません。
 いろいろな価値判断を持った勢力が、それぞれ行動経済学の知見を利用して人々に働きかける競争をしていて、その中の一プレーヤーとして政策当局もいますという位置づけならいいかもしれません。そして、その際の競争のルールとして、どんな価値観を持って何を選ばせたいのかを明らかにするとか、拒否しようと思えば低コストで拒否できるとか、いろいろな基準を考えましょうという意図であるならわかります。

 まあ、いろいろな議論がありますが、多少学術的な文章に抵抗がないのなら、是非これを読んで下さい。
『現代経済学の潮流2009』(東洋経済新報社, amazon bk1 セブンアンドワイ 本やタウン
現代経済学の潮流2009
 この第2章、岩本康志さんの「行動経済学は政策をどう変えるのか」で、こうした問題をめぐる大方の議論は検討されています。
 例えば、一番深刻な薬物中毒などの例。果たしてこれを規制することはどう正当化されるのでしょうか。合理的に選んでいるならば本人の選択に任せるのが筋ということになります。しかし、エインズリーさんが指摘した、未来の時間割引より目の前の時間割引の方が大きいせいで、将来計画をドタキャンしてしまう問題だとすると話は別です。でもこの場合には、エインズリーさんが指摘する通り、一人の人間に複数の人格があるようなものなので、異なる選好を持つ諸個人から社会的効用関数をどのように導きだすかという問題と同じ困難が生じます。ゲーム理論に言う「コミットメント論」(将来時点での選択から逆向きに計画を立てると最適な結果にならないので、あらかじめ将来時点での選択を狭める約束をする)での正当化がなされたりもしますが、そうすると、将来を正確に予見できなかったためにもともと最適でない計画を立てていた場合(この場合には現実を知ったら計画を変更するのが合理的である)とどう区別がつくのかという問題があります。結局、エインズリーさんが問題にしたかったことも、ある意味でこういうことかな。
 もっとも、岩本さんが言うように、現実の日本では、もともとパターナリズムの立場で作られている政策がいっぱいあふれているので、リバタリアン・パターナリズム程度のものでも、政策の根拠を再精査して、要らない規制をなくして個人の自由を広げる方向で役立つとは言えるかもしれません。

 まあ、ボクが思うには、双曲割引的な現象って、人間の計画に二種類あることからきてるんじゃないかな。5年後、10年後の計画を立てるときって、もし毎年決まった所得が得られて、年々何も変わらない日々が必ず続くならば、たとえ利子率がゼロでも、毎年の消費は一定不変に計画するのが合理的ですよね。これって割引率がゼロってことです。もしプラスの割引率を持っていたら、最初の方でたくさん借金していっぱい消費して、だんだん消費を減らしてゼロに近づけていくヘンな計画を立てるはずですから。
 しかし、現在タダイマの現実に直面した行動としては、不確実な将来よりは目の前の生存の危機に優先して対応しないといけないことが多いです。

 こういうことって、別に時間割引だけでなくて、いろいろあると思うのです。
 例えば、将棋でお互い「居飛車で攻める矢倉で受ける」って戦略がとられたら、なかなかそれは変えられなくなって、その大戦略の中で現実の各局面を受けた戦術が緻密に計算されます。やっているうちに、なんか飛車が左に寄っちゃったとか、戦術が戦略からズレていくんだけど、しばらくはもとの大戦略が維持されます。しかしやがてあんまり局面が変わって戦略を維持する不都合が大きくなると、どこかで戦略は変更されます。長期の戦略は、短期の現実を受けた戦術からある程度切れてひとり立ちする傾向があるわけです。
 あるいは、消費選択も、食費・住居費といった大枠の選択や就職・結婚などの人生選択と、それを受けた日々の食材の選択とは次元が切れているという気がします。企業が机上の技術選択肢から長期的に最適になるようにらんで新設備の技術を決めることと、現に据え付けられた設備の技術の下で日々の市場の現実に合わせて稼働を決めることとも似たような関係にあります。判決が繰り返される中で形成される不文の法原則と、個々の政治家や官僚が日々の現実に直面して下す具体的な法令との関係も似たようなものです。
 つまり、長期的なこと大枠のことは、日々の現実からある程度切れてひとり立ちする。他方、その制約を受けつつ、日々の現実に合わせて多少逸脱しながら、短期的なこと細かいことが営まれる。こういう関係になっているようです。これは、企業理論では長期と短期の関係としてミクロ経済学の教科書にも出てくるように、これまでの経済学──マルクスや特にマーシャル──が考察してきたことです。
 そして、この長期的なこと大枠のことが、結局日々の現実からズレていって、やがて個々人に不都合を押し付けて不幸にしてしまう。これが『「はだかの王様」の経済学』で見た「疎外」ということで、マルクスの生涯のテーマだったというのがボクの持論です。
 そういうわけなので、行動経済学はこれまでの経済学が問題にしてきたことを精緻化しているのであり、全く新しいものを作ろうとしているのではないというのが、ボクの私見です。

 なお、似たような話なのですが、全く別の方法論のものに、
マーク・ブキャナン『人は原子、世界は物理法則で動く』(白揚社, amazon bk1 セブンアンドワイ 本やタウン
があります。これも、経済学の中の人が超人的合理的計算をすることに対しては、行動経済学な人たちに劣らず否定的な本なのですが、むしろ、各自が何らかの広い意味で利己的に振る舞うことを強調する点では従来の経済学に近いかもしれません。
 そして、各人が互いにちょっとでもマシと思えるように適応行動する相互作用の結果、全体的な秩序が個々人の意図を超えた物理法則のような自己運動をするのです。そして、また『「はだかの王様」の経済学』の「疎外」の話になりますが、往々にしてそれが暴走して個々人を不幸に陥れてしまいます。その一例としてこの本は、旧ユーゴスラビアで、かつては「嬉しいことも悲しいことも、ともに分かちあった」隣人達が、突然民族どうしに分かれて敵対し、かつての友人達の喉を切り裂くようになったエピソードで始まります。コンピータシミュレーションでも、ごくわずかの条件さえあれば、ほとんど何の意味もない特徴によって、居住や協力関係がグループに分離していくケースがあることが示されているそうです。
 もちろんこの本は、世の中そんなものだから受け入れろと言っているわけではなく、こうした物理法則を理解することによって、人間が何もわからないうちに全体秩序に振り回されるのではなくて、いろいろな帰結を見通してうまく手を打てるようになることを展望しています。そして、人間のこうした傾向を権力のために利用する政治家の責任を問う主張にもなっていると思います。


 さて、またまた話は変わるのですが、ナカニシヤ出版さんからこんな本をいただきました。
網谷龍介・伊藤武・成廣孝『ヨーロッパのデモクラシー』amazon bk1 セブンアンドワイ 本やタウン
 ボクも政党配置を二次元図とか三次元図で表すのが好きで、このサイトのエッセーでも、こういうのとかこういうのとかかいてますけど、この本は、EU議会とヨーロッパ28カ国の政治状況を、しばしば二次元の政党配置図にかいて説明した全くボク好みの楽しい本です。
 たいていの二次元図は、伝統的な左右というか、資本vs労働というか、市場志向か分配志向かみたいな経済的な軸に加えて、権威主義−リベラルまたは、ナショナリズム−ヨーロッパ統合みたいな軸が重なってできています。

 それで、各国いろいろな特徴はあるのですが、それでもこの本を通読すると、ヨーロッパ全体を貫くだいたいの共通点が見えてくる気がします。
(1)伝統的な資本vs労働の軸はなくなったわけでは決してなく、特に西欧の場合は社会の中に強固にその分断が残っているが、他方でナショナリズムvsリベラルみたいな軸も加わるなどして、政党そのものは多次元・多党化する傾向にある。
(2)ところが、そういった諸政党が結局、多くは旧来の左右軸にしたがって、二極結集する傾向が顕著にある。小選挙区二回投票制のフランスでは特にそうだが、比例代表制の国でもそういう傾向が一般的に見られる。
(3) ところがその二極の中心政党どうしの間の経済政策には、実はたいした差がない。
(4) 政治・文化の自由主義と、経済的自由主義を合わせた真性リバタリアンは、あまり安定した政治勢力を広げることに成功しない。
(5) 極右ナショナリストは、「小さな政府」の主張とくみ合わさった時、勢力を広げることに成功する。

 これはいったいどういうことなのでしょうか。ナショナリズムと「小さな政府」の組み合わせは、ひどい矛盾で、最も避けるべき組み合わせです。特にヨーロッパでは、「小さな政府」にして市場に任せることは、市場の現実たるヨーロッパ統合を推進することをすぐさま意味し、国家の独自性も主権も崩すこととイコールで、ナショナリズムと相容れるはずがありません。にもかかわらず、この組み合わせは官僚叩きなどで大衆に受け、本来つじつまの合った組み合わせのはずの真性リバタリアンは、なぜか有権者大衆に受けないということです。うーむ。上田さんには申し訳ないが。
 実際、日本でも、ハト派・経済自由主義の政治勢力は、かつての新自由クラブ、その後継の進歩党、その後の「さきがけ」など、いずれも短命で広まらないうちに終わっています。それに対して、日本型システムを破壊してアメリカ型市場主義を導入しながら、靖国参拝などのナショナリズム路線を突き進んだ小泉パッケージは、国民大衆に大受けしました。そのために社会が被った実害は大きいのですが。実に謎な現象です。

 しかも、伝統的左右の軸はかなり政策選択の意味を失っているのに、なぜか結局左右で二極結集するというのも不思議です。EU統合推進か反対かとか、もっと深刻な政策対立があるにもかかわらず、結局はそのどちらもいっしょくたになって、旧左右で分かれるのです。
 これも、ヨーロッパだけではなくて、アメリカでも日本でも見られる気がします。アメリカの民主党と共和党、日本の民主党と自民党の経済政策には、ほとんど差がないにもかかわらず、政治文化のようなものによって国が二分される亀裂が見られます。

 これこそ経済合理性では説明がつかない気がします。今残る左右の軸は、厳密には資本側vs労働側という分かれ方ではないでしょう(もしそうなら社共は完全雇用を目指しているはずだ!)。ヨーロッパの現実を見ると、ハト派vsタカ派みたいな安全保障問題での分かれ方ともズレています。本サイトの「用語解説:右翼と左翼」で使った「商人道・経済学的発想vs武士道・反経済学的発想」でしょうか。右派側がほぼ「武士道・反経済学的発想」という国が多いですから、かなり合うような気もしますけど、どう考えても「武士道・反経済学的発想」の政党が左派側にもたくさんいたりしますので、やっぱり違うでしょう。
 こりゃもう、それこそ「行動経済学」の世界の話で、何かの生物進化的時間スケールで形成された心理的要因があるのでしょう。

 今なんとなく想像しているのは、「厳しい頑固親父vsやさしい肝っ玉かあさん」の図式にはまると、人間心理として安定するのかなということ。どうでしょうか。


 なんだかずいぶん長くなってしまいました。最後に田中秀臣さんからいただいたこれを宣伝しないと。
田中秀臣『偏差値40から良い会社に入る方法』(東洋経済新報社, amazon bk1 セブンアンドワイ 本やタウン)
 本の中で『商人道ノスヽメ』に触れていただいたからでも、「リフレ派経済学MAP」で『痛快明快』本を挙げていただいたからでも、誉めておかないとあとからイジメっ子なしうちが怖いからでも、リフレ派の身内集団原理のせいでもなくて、真に偉大な業績だと心から思います。
 有効な就職指導こそ、学生たちにとって一番役立つこと、彼らが一番望んでいること、だから、私たちにとって本来一番やるべきことのはずです。
 この本当にやるべきことに、長年、地道に誠実に取り組んできたことこそ、田中さんが最も誇るべきことだと思います。読んでいると、田中さんが本当に学生のことを思っていることが伝わってきます。ボクなど、この分野の取り組みがとても弱くて、これまでの教師生活18年弱、研究室に顔を見せたゼミの四年生に励ましの言葉をかける以上のことはできなかったので、恥ずかしく思っています。これだけで、これまでの数々のイジメっ子なしうち(笑)が水に流れちゃいます。

 まあ、具体的にどんな指導をすればいいのかは、ネタバレになりますので、是非買って読んで下さい。
 もちろん、どこの大学でもそのままあてはまるわけではないでしょうから、それぞれ工夫は必要でしょう。立命館大学のキャリアセンターにこの本の宣伝に行ったら、ものすごく冷たくてほとんど相手にされなかった(怒)。図書館の人は興味持って表紙コピーとかとってくれたけど。学生の質なんて前任校とほとんど何も変わらないのに、なぜか去年までは名の通った会社によく決まっていたみたいで、「ウチとは関係ない本」と思われたかな。しかし、今年は、常に去年の同じ月より10%ポイント減の実質就職率で推移していますよ。まだボクは今の三回生が最初のゼミ生で、慣れていないから状況がよくわからないけど、立命館だからといって先行き全然楽観できないことだけはよくわかるので、この本も参考にして今後工夫していこうと思います。
 ただ、この本で書かれていた、就職面接でサークルやアルバイトでの経験を語ってもさほど重視されない、ゼミでどんな学びに取り組んだかの方がよほど重視されるという、至極まっとうな記述は、よく腑に落ちたのでたびたび語らせていただいております。

 それにしても、田中さんも、本の執筆とか漫画・アイドルのフォローとかで忙しい中、こんな大変な業務に追われていたら過労死しますよ。大学院のご同僚にもあまねく仕事をシェアしてもらいましょう。

 ところで、この本田中さんから献本いただいたのですけど自分でも買っていたので、一冊は前任校の久留米大学の就職課に寄贈しました。そしたらとても喜んでくれました。久留米大学の最後のゼミ生は、4年生ゼミは必修でないので、昨年度の3年ゼミ生が全員とっているわけではないんですけど、とりあえず履修してくれたみんなはほぼ就職が決まって安心しています。あとは、卒業単位優先で最初から就職活動を来年度に伸ばした者と、希望の進路があって専門学校に行く者がいるだけ。
 4年ゼミを履修しなかった学生は、総じてあまりかんばしくない状況みたいだけど、まあ、決してそういうのは自己責任ではなくて、政策のせいなんだけど、それはふまえたうえで、でもやはり義理でも何でもいいから、単位がそろっててもあえて論文書かせられるゼミを履修するという姿勢自体、何かプラスのものがあるんだろうね。
 田中さんの本で描かれている学生と違って、久留米大学の学生は、とても地元志向が強くて、最初から全然高望みしません。首都圏、大阪圏に出てもよければどっかに見つかるんでしょうけど嫌がりますね。今回就職が決まったゼミ生達も、みんな最初から北部九州内の中小地場企業を望んで、その通りに決まりました。まあ、めでたしめでたしということで。

 立命館ではマクロ経済学を履修していない学生がいるので無理なのですが、久留米大学のゼミでは、マクロ経済学を使って景気のことを勉強してもらいます。それで4年生のゼミでは最終的に論文を書いてもらうべく研究に取り組んでもらっていますが、いやあ今年もなかなかおもしろい実証研究がボロボロ出てきていますよ。最後の最後になって大豊作って感じです。
 正月休み明けには最終的にまとめに入るから、このエッセーコーナーでまたいくつかお目にかけようと思っています。乞うご期待!


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